居が見送ったお玉のかわりに伊之助の妻のお富《とみ》。伏見屋ではこの人たちが両養子で、夫婦とも隣の国の方から来て、養父金兵衛から譲られた家をやっている。夫婦の間に子供は二人《ふたり》生まれている。血縁はないまでも、本陣とは親類づきあいの間柄である。この隣家の主人が、新しい簾《すだれ》をかけた店座敷の格子先の近くに席を造って、半蔵をよろこび迎えてくれた。
「半蔵さん、旅はいかがでした。こちらはろくなお留守居もできませんでしたよ。」
 そういう伊之助は男のさかりになればなるほど、ますますつつしみ深くなって行くような人である。物腰なぞは多分に美濃の人であるが、もうすっかり木曾じみていて、半蔵にとっては何かにつけての相談相手であった。
「いや、こんなにわたしも長くなるつもりじゃなかった。」と半蔵は言った。「伊勢路までにして引き返せばよかったんです。途中で、よっぽどそうは思ったけれど、京都の様子も気にかかるものですから、つい旅が長くなりました。」
「たぶん、半蔵さんのことだから、京都の方へお回りになるだろうッて、お富のやつともおうわさしていましたよ。」
「そう言ってくれるのは君ばかりだ。」
 その時、半蔵がしるしばかりの旅の土産《みやげ》をそこへ取り出すと、伊之助はその京の扇子なぞを彼の前で開いて見て、これはよい物をくれたというふうに、男持ちとしてはわりかた骨細にできた京風の扇の形をながめ、胡麻竹《ごまだけ》の骨の上にあしらってある紙の色の薄紫と灰色の調和をも好ましそうにながめて、
「半蔵さんの留守に一番困ったことは――例の農兵呼び戻《もど》しの一件で、百姓の騒ぎ出したことです。どうしてそんなにやかましく言い出したかと言うに、村から出て行った七人のものの行く先がはっきりしない、そういうことがしきりにこの街道筋へ伝わって来たからです。」
「そんなはずはないが。」
「ところがです、東方《ひがしがた》へ付くのか、西方《にしがた》へ付くのか、だれも知らない、そんなことを言って、二百人の農兵もどうなるかわからない、そういうことを言い触らされるものですから、さあ村の百姓の中には迷い出したものがある。」
「でも、行く先は越後《えちご》方面で、尾州藩付属の歩役でしょう。尾州の勤王は知らないものはありますまい。」
「待ってくださいよ。そりゃ木曾福島の御家中衆が尾州藩と歩調を合わせるなら、論はありません。谷中の農兵は福島の武士に連れられて行きましたが、どうも行く先が案じられると言うんです。そんなところにも動揺が起こって来る、流言は飛ぶ――」
「や、わたしはまた、田圃《たんぼ》や畠《はたけ》が荒れて、その方で百姓が難渋するだろうとばかり思っていました。」
「無論、それもありましょう。しまいには毎日毎日、村中の百姓と宿役人仲間との寄り合いです。あの庄助さんなぞも中にはさまって弱ってました。先月の二十六日――あれは麦の片づく時分でしたが、とうとう福島のお役所からお役人に出張してもらいまして、その時も大評定《だいひょうじょう》。どうしても農兵は戻してもらいたい、そのことはお役人も承知して帰りました。それからわずか三日目があの百姓|一揆《いっき》の騒ぎです。」
「どうも、えらいことをやってくれましたよ。わたしも落合の稲葉屋《いなばや》へ寄って、あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助さんも中津川までかけつけてくれたそうですね。」
「えゝ。それがまた、大まごつき。こちらは彦根様お泊まりの日でしょう。武士から人足まで御同勢五百人からのしたくで、宿内は上を下への混雑と来てましょう。新政府の官札は不渡りでないまでも半額にしか通用しないし、今までどおりの雇い銭の極《き》めじゃ人足は出て来ないし……でも、捨て置くべき場合じゃないと思いましたから、宿内のことは九郎兵衛(問屋)さんなぞによく頼んで置いて、早速《さっそく》福島のお役所へ飛脚を走らせる、それから半分夢中で落合までかけて行きました。その翌日の晩は、中津川に集まった年寄役仲間で寄り合いをつけて、騒動のしずまったところを見届けて置いて、家へ帰って来た時分にはもう夜が明けました。」
 思わず半蔵は旅の疲れも忘れて、その店座敷に時を送った。格子先の簾《すだれ》をつたうかすかな風も次第に冷え冷えとして来る。
「どうも、なんとも申し訳がない。」と言って、半蔵は留守中の礼を述べながらたち上がった。「こんな一揆の起こるまで、あの庄助さんも気がつかずにいたものでしょうか。」
「そりゃ、半蔵さん、笹屋《ささや》だって知りますまい。あれで笹屋は自分で作る方の農ですから。」
「わたしは兼吉や桑作でも呼んで聞いて見ます。わたしの家には先祖の代から出入りする百姓が十三人もある。吾家《うち》へ嫁に来た人について美濃から移住したような、そんな関係のもの
前へ 次へ
全105ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング