ツマらんぞなし。食っては、抜け。食っては抜け。それも食って抜けられるうちはまだいい。三月四月の食いじまいとなって見さっせれ。今日どんな稼《かせ》ぎでもして、高い米でもなんでも買わなけりゃならん。」
「そんなにみんな困るのか。困ると言えば、こんな際にはお互いじゃないか。そんなら聞くが、いったい、岩倉様の御通行は何月だったと思う。あの時に出たお救いのお手当てだって、みんなのところへ行き渡ったはずだ。」
「お前さまの前ですが、あんなお手当てがいつまであらすか。みんな――とっくに飲んでしまったわなし。」
粗野で魯鈍《ろどん》ではあるが、しかし朴直《ぼくちょく》な兼吉の目からは、百姓らしい涙がほろりとその膝《ひざ》の上に落ちた。
桑作は声もなく、ただただ頭をたれて、朋輩《ほうばい》の答えることに耳を傾けていた。やがてお辞儀をして、兼吉と共にその囲炉裏ばたを離れる時、桑作は桑作らしいわずかの言葉を半蔵のところへ残した。
「だれもお前さまに本当のことを言うものがあらすか。」
「そんなにおれは百姓を知らないかなあ。」
この考えが半蔵を嘆息させた。過ぐる二月下旬に岩倉総督一行が通行のおりには、まるで祭礼を見物する人たちでしかなかったような村民の無関心――今また、千百五十余人からの百姓の騒擾《そうじょう》――王政第一の年を迎えて見て、一度ならず二度までも、彼は日ごろの熱い期待を裏切られるようなことにつき当たった。
「新政府の信用も、まだそんなに民間に薄いのか。」
と考えて、また彼は嘆息した。
彼に言わせると、これは長い年月、共に共に武家の奉公を忍耐して来た百姓にも似合わないことであった。今は時も艱《かた》い上に、軽いものは笞《むち》、入墨《いれずみ》、追い払い、重いものは永牢《えいろう》、打ち首、獄門、あるいは家族非人入りの厳刑をさえ覚悟してかかった旧時代の百姓|一揆《いっき》のように、それほどの苦痛を受けなければ訴えるに道のない武家専横の世の中ではなくなって来たはずだからである。たとい最下層に働くものたりとも、復興した御代《みよ》の光を待つべき最も大切な時と彼には思われるからである。
しかし、その時の彼はこんな沈思にのみふけっていられなかった。二人の出入りの百姓を送り出して見ると、留守中に彼を待っている手紙や用件の書類だけでも机の上に堆高《うずだか》いほどである。種々《さまざま》な村方の用事は、どれから手をつけていいかわからなかったくらいだ。彼は留守中のことを頼んで置いた清助を家に迎えて見た。犬山の城主|成瀬正肥《なるせまさみつ》、尾州の重臣田宮如雲なぞの動きを語る清助の話は、会津戦争に包まれて来た地方の空気を語っていないものはなかった。彼は自分の家に付属する問屋場の世話を頼んで置いた従兄《いとこ》の栄吉にもあって見た。地方を府県藩にわかつという新制度の実施はすでに開始されて、馬籠の駅長としての半蔵あてに各地から送ってよこした駅路用の印鑑はすべて栄吉の手に預かってくれてあった。栄吉は彼の前にいろいろな改正の印鑑を取り出して見せた。あるものは京都府の駅逓《えきてい》印鑑、あるものは柏崎《かしわざき》県の駅逓印鑑、あるものは民政裁判所の判鑑というふうに。
彼はまた、宿役人一同の集まる会所へも行って顔を出して見た。そこには、尾州藩の募集に応じ越後口補充の義勇兵として、この馬籠からも出発するという荒町の禰宜《ねぎ》、松下千里のうわさが出ていて、いずれその出発の日には一同峠の上まで見送ろうとの相談なぞが始まっていた。
六
木曾谷の奥へは福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜《ねぎ》、松下千里は有志の者としてであるが、越後方面への出発の日には朝早く来て半蔵の家の門をたたいた。
「禰宜さま、お早いなし。」
と言いながら下男の佐吉が本陣表門の繰り戸の扉《とびら》をあけて、千里を迎え入れた。明けやすい街道の空には人ッ子|一人《ひとり》通るものがない。宿場の活動もまだ始まっていない。そんな早いころに千里はすっかりしたくのできたいでたちで、家伝来の長い刀を袋のまま背中に負い、巻き畳《たた》んだ粗《あら》い毛布《けっと》を肩に掛け、風呂敷包《ふろしきづつ》みまで腰に結び着けて、朝じめりのした坂道を荒町から登って来た。
この禰宜は半蔵のところへ別れを告げに来たばかりでなく、関所の通り手形をもらい受けに来た。これから戦地の方へ赴《おもむ》く諏訪《すわ》分社の禰宜が通行を自由にするためには、宿役人の署名と馬籠宿の焼印《やきいん》の押してある一枚の木札が必要であった。半蔵はすでにその署名までして置いてあったので、それを千里に渡し、妻のお民を呼んで自分でも見送りのしたくした。庄屋らしい短い袴《はかま》に、草履《ぞうり》ばき
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