ています。そこへ小野三郎兵衛さんでも出て行って口をきかなかったら、勝重の言い草じゃありませんが、どういうことになったかわかりません。あの人も黙ってみてる場合じゃないと考えたんでしょうね。平田先生の御門人ならうそはつくまいということで、百姓仲間もあの人に一切を任せるということになりました。三郎兵衛さんが尾州表へ急行したと聞いて、それから百姓仲間も追い追いと引き取って行きました。まあ、大事に立ち至らないで、何よりでございましたよ。」
これを儀十郎は話し話し食った。そのいい年齢《とし》に似合わないほど早くも食った。
儀十郎はかなりトボけた人で、もしこれが厳罰主義をもって下に臨む旧政府の時代であったら、庄屋としての半蔵もおとがめはまぬかれまいなどと戯れて見せる。連帯の責任者として、縄《なわ》付きのまま引き立てられるところであったとも笑わせる。
こんな勝重の父親のこだわりのない調子が、やや半蔵を安心させた。やがて一同昼食をすましたころ、儀十郎はついと座を立って、別の部屋の方から一通の覚え書きを取り出して来た。小野三郎兵衛が百姓仲間に示したというものの写しである。尾州藩の方へ差し出す嘆願趣意書の下書きとも言うべきものである。それには新紙幣の下落、諸物価の暴騰などについて、半蔵が旅の道々|懸念《けねん》して来たようなことはすべてその中に尽くしてあり、この際、応急のお救い手当て、人馬雇い銭の割増し、米穀買い占めの取り締まり等の嘆願の趣が個条書にして認《したた》めてある。三郎兵衛はまた、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、尾州藩が募集した農兵のことを書き添えることを忘れなかった。その覚え書きを見ると、付近の宿々村々から中津川に集合した宿役人、および村役人らが三郎兵衛の提議に同意して一同署名したことがわかり、儀十郎もやはり落合宿年寄役として署名人の中に加わったこともわかり、一方にはまた、あの三郎兵衛が同門の景蔵や香蔵の留守をひどく心配していることもわかった。
「馬籠からは、伏見屋の伊之助さんがすぐさまかけつけて来てくれました。他に一人《ひとり》、年寄役も同道で。」と儀十郎が言う。
「そうでしたか。それを聞いて、わたしも安心しました。自分の留守中にこんな事件が突発して、面目ない。このあと始末はどうなりましょう。」
半蔵がそれをたずねると、儀十郎は事もなげに、
「それがです。尾州藩のことですから、いずれ京都政府へ届け出るでしょう。政務の不行き届きからこんな騒擾《さわぎ》に及んだのは恐れ入り奉るぐらいのことは届け出るでしょう、届け出はするが、千百五十余人の百姓一揆はざっと四、五百人、実際はそれ以下の二、三百人ぐらいのことに書き出しましょう。徒党の頭取《とうどり》になったものも、どう扱いますかさ。ひょっとすると、この事件は尾州藩で秘密に葬ってしまうかもしれません。あるいは徒党の頭取になったものだけを木曾福島へ呼び出して、あの代官所で調べるぐらいのことはありましょうか。ナニ、それも以前のように、重いお仕置《しおき》にはしますまいよ。これが以前ですと、重々不届き至極《しごく》だなんて言って、引き回したり、梟首《さらしくび》にしたりしたものですけれど。」
「でも、お父《とっ》さん。」と勝重がそれを引き取って、「番太の娘に戯れたぐらいで打ち首になった因州の武士は東山道軍が通過の時にもありますよ。今度の新政府は徒党を組むことをやかましく言うじゃありませんか。宿々の御高札場にまでそれを掲げるくらいにして、浮浪者と徒党を厳禁していますよ。」
「ついでに、六十一万九千五百石(幕府時代に封ぜられた尾州家の禄高《ろくだか》をさす)を半分にでも削るか。」
と儀十郎は戯れた。
半蔵がこの奥座敷を離れたのは、それから間もなくであった。彼が表の入り口の土間に降りるところで平兵衛と一緒になった時は、家の人の心づかいかして、草鞋《わらじ》まで新規に取り替えたのがそこに置いてある。そればかりでなく、勝重の母親はよめと共に稲葉屋の門口に出て、礼を述べて行く半蔵らを見送った。
「お師匠さま。」
と言いながら、半蔵の後ろから手を振って追いかけて来るのは勝重だ。京都の方で半蔵が見たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝には天保山《てんぽうざん》の沖合いの方で初めて海軍の演習を御覧になったとのうわさの残っていたこと、あの復興最中の都にあるものは宗教改革の手始めから地方を府藩県に分ける新制度の施設まで、何一つ試みでないもののないことなど、歩きながらの彼の旅の話が勝重の心をひいた。勝重は落合の宿はずれまで半蔵について来て、別れぎわに言った。
「そうでしょうなあ。何から手をつけていいかわからないような時でしょうなあ。どうでしょう、お師匠さま、今度の百姓一揆のあと始末なぞも、吾家《うち》
前へ
次へ
全105ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング