の阿爺《おやじ》の言うように行きましょうかしら。」
「さあ、ねえ。」
「小野三郎兵衛さんも骨は折りましょうし、尾州藩でもこんな時ですから、百姓仲間の言うことを聞いてはくれましょう。ただ心配なのは、徒党の罪に問われそうな手合いです。それとも、会津戦争も始まってるような際だからと言って、こんな事件は秘密にしてしまいましょうか。」
「まあ、けが人は出したくないものだね。」

       四

 野外はすでに田植えを済まし、あらかた麦も刈り終わった時であった。半蔵が平兵衛を連れて帰って行く道のそばには、まだ麦をなぐる最中のところもある。日向《ひなた》に麦をかわかしたところもある。手回しよく大根なぞを蒔《ま》きつけるところもある。
 大空には、淡い水蒸気の群れが浮かび流れて、遠く丘でも望むような夏の雲も起こっている。光と熱はあたりに満ちていた。過ぐる長雨から起き直った畠《はたけ》のものは、半蔵らの行く先に待っていて、美濃の盆地の豊饒《ほうじょう》を語らないものはない。今をさかりの芋《いも》の葉だ。茄子《なす》の花だ。胡瓜《きゅうり》の蔓《つる》だ。
 ある板葺《いたぶ》きの小屋のそばを通り過ぎるころ、平兵衛は路傍《みちばた》の桃の小枝を折り取って、その葉を笠《かさ》の下に入れてかぶった。それからまた半蔵と一緒に歩いた。
「半蔵さまのお供もいいが、ときどきおれは閉口する。」
「どうしてさ。」
「でも、馬のあくびをするところなぞを、そうお前さまのようにながめておいでなさるから。おもしろくもない。」
「しかし、この平穏はどうだ。つい十日ばかり前に、百姓|一揆《いっき》のあったあととは思われないじゃないか。」
 そこいらには、草の上にあおのけさまに昼寝して大の字なりに投げ出している村の男の足がある。山と積んだ麦束のそばに懐《ふところ》をあけて、幼い嬰児《あかご》に乳を飲ませている女もある。
 半蔵らは途中で汗をふくによい中山薬師の辺まで進んだ。耳の病を祈るしるしとして幾本かの鋭い錐《きり》を編み合わせたもの、女の乳|搾《しぼ》るさまを小額の絵馬《えま》に描いたもの、あるいは長い女の髪を切って麻の緒《お》に結びささげてあるもの、その境内の小さな祠《ほこら》の前に見いださるる幾多の奉納物は、百姓らの信仰のいかに素朴《そぼく》であるかを語っている。その辺まで帰って来ると、恵那山麓《えなさんろく》の峠に続いた道が半蔵らの目の前にあった。草いきれのするその夏山を分け登らなければ、青い木曾川が遠く見えるところまで出られない。秋深く木の実の熟するころにでもなると、幾百幾千の鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+臈のつくり」、第3水準1−87−81]子鳥《あとり》、深山鳥《みやま》、その他の小鳥の群れが美濃方面から木曾の森林地帯をさして、夜明け方の空を急ぐのもその十曲峠だ。


 ようやく半蔵らは郷里の西の入り口まで帰り着いた。峠の上の国境に立つ一里塚《いちりづか》の榎《えのき》を左右に見て、新茶屋から荒町《あらまち》へ出た。旅するものはそこにこんもりと茂った鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》と、涼しい樹陰《こかげ》に荷をおろして往来《ゆきき》のものを待つ枇杷葉湯《びわようとう》売りなぞを見いだす。
「どれ、氏神さまへもちょっと参詣《さんけい》して。」
 村社|諏訪社《すわしゃ》の神前に無事帰村したことを告げて置いて、やがて半蔵は社頭の鳥居に近い杉《すぎ》切り株の上に息をついた。暑い峠道を踏んで来た平兵衛も、そこいらに腰をおろす。日ごとに行きかう人馬のため踏み堅められたような街道が目の前にあることも楽しくて、二人《ふたり》はしばらくその位置を選んで休んだ。
 落合の勝重の家でも話の出た農兵の召集が、六十日ほど前に行なわれたのも、この氏神の境内であった。それは尾州藩の活動によって起こって来たことで、越後口《えちごぐち》に出兵する必要から、同藩では代官山村氏に命じ、木曾谷中へも二百名の農兵役を仰せ付けたのである。馬籠《まごめ》の百姓たちはほとんどしたくする暇も持たなかった。過ぐる閏《うるう》四月の五日には木曾福島からの役人が出張して来て、この村社へ村中一統を呼び出しての申し渡しがあり、九日にはすでに鬮引《くじび》きで七人の歩役の農兵と一人《ひとり》の付き添いの宰領とを村から木曾福島の方へ送った。
 半蔵はまだあの時のことを忘れ得ない。召集されて行く若者の中には、まだ鉄砲の打ち方も知らないというものもあり、嫁をもらって幾日にしかならないというものもある。長州や水戸《みと》の方の先例は知らないこと、小草山の口開《くちあ》けや養蚕時のいそがしさを前に控え、農家から取られる若者は「おやげない」(方言、かあいそうに当たる)と言って、目を泣きはらしながら見送る婆《ばあ》さんたちも多か
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