《はいかい》は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆はまたこうした儀十郎の家なぞの屏風を飾っている。おまけに、勝重の迎えた妻はまだようやく十七、八のういういしさで、母親のうしろに添いながら、挨拶かたがた茶道具なぞをそこへ運んで来る。隣の国の内とは言いながら、半蔵にとってはもはや半分、自分の家に帰った思いだ。
 しかし、このもてなしを受けている間にも、半蔵はあれやこれやと儀十郎に尋ねたいと思うことを忘れなかった。彼は中津川大橋の辺から落合へかけての間を騒がしたという群れの中に何人の馬籠の百姓があったろうと想像し、庄屋としての彼が留守中に自分の世話する村からもそういう不幸なものを出したことを恥じた。


「もう時刻ですから、ほんの茶漬《ちゃづ》けを一ぱい差し上げる。何もありませんが、勝重の家で昼じたくをしていらしってください。」と儀十郎が言い出した。「半蔵さん、あなたが旅に行っていらっしゃる間に、いろいろな事が起こりました。会津の方じゃ戦争が大きくなるし、この辺じゃ百姓仲間が騒ぐし――いや、この辺もだいぶにぎやかでしたわい。」
 儀十郎は笑う声でもなんでも取りつくろったところがない。その無造作で何十年かの街道生活を送り、落合宿の年寄役を勤め、徳川の代に仕上がったものが消えて行くのをながめて来たような人だ。百姓|一揆《いっき》のうわさなぞをするにしても、そう物事を苦にしていない。容易ならぬ時代を思い顔な子息《むすこ》の勝重をかたわらにすわらせて、客と一緒に大きな一閑張《いっかんば》りの卓をかこんだところは、それでも同じ血を分けた親子かと思われるほどだ。
「でも、お父《とっ》さん、千人以上からの百姓が鯨波《とき》の声を揚げて、あの多勢の声が遠く聞こえた時は物すごかったじゃありませんか。わたしはどうなるかと思いましたよ。」
 勝重はそれを半蔵にも聞かせるように言った。
 その時、勝重の母親が昼食の膳《ぜん》をそこへ運んで来た。莢豌豆《さやえんどう》、蕗《ふき》、里芋《さといも》なぞの田舎風《いなかふう》な手料理が旧家のものらしい器《うつわ》に盛られて、半蔵らの前に並んだ。勝重の妻はまた、まだ娘のような手つきで、茄子《なす》の芥子《からし》あえなぞをそのあとから運んで来る。胡瓜《きゅうり》の新漬けも出る。
「せっかく、お師匠さまに寄っていただいても、なんにもございませんよ。」と勝重の母親は半蔵に言って、供の男の方をも見て、
「平兵衛さ、お前もここで御相伴《ごしょうばん》しよや。」
「いえ、おれは台所の方へ行って頂《いただ》く。」
 と言いながら、平兵衛は自分の前に置かれた膳を持って、台所の方へと引きさがった。
 勝重は若々しい目つきをして、半蔵と父親の顔を見比べ、箸《はし》を取りあげながらも、話した。「この尾州領に一揆が起こったなんて今までわたしは聞いたこともない。」
「それがさ。半蔵さんも御承知のとおりに、尾州藩じゃよく尽くしましたからね。」と儀十郎が言って見せる。
「お父《とっ》さん――問屋や名主を目の敵《かたき》にして、一揆の起こるということがあるんでしょうか。」と勝重が言った。
「そりゃ、あるさ。他の土地へ行ってごらん、ずいぶんいろいろな問屋がある。百姓は草履《ぞうり》を脱がなければそこの家の前を通れなかったような問屋もある。草履も脱がないようなやつは、お目ざわりだ、そういうことを言ったものだ。いばったものさね。ところが、お前、この御一新だろう。世の中が変わるとすぐ打ちこわしに出かけて行った百姓仲間があると言うぜ。なんでも平常《ふだん》出入りの百姓が一番先に立って、闇《やみ》の晩に風呂敷《ふろしき》で顔を包んで行って、問屋の家の戸障子と言わず、押入れと言わず、手当たり次第に破り散らして、庭の植木まで根こぎにしたとかいう話を聞いたこともあるよ。この地方にはそれほど百姓仲間から目の敵《かたき》にされるようなものはない。現在宿役人を勤めてるものは、大概この地方に人望のある旧家ばかりだからね。」
 儀十郎は無造作に笑って、半蔵の方を見ながらさらに言葉をつづけた。
「しかし、今度の一揆じゃ、中津川辺の大店《おおだな》の中には多少用心した家もあるようです。そりゃ、こんな騒ぎをおっぱじめた百姓仲間ばかりとがめられません。大きい町人の中には、内々《ないない》米の買い占めをやってるものがあるなんて、そんな評判も立ちましたからね。まあ、この一揆を掘って見たら、いろいろなものが出て来ましょう。何から何まで新規まき直しで、こんな財政上の御改革が過激なためかと言えば、そうばかりも言えない。世の中の変わり目には、人の心も動揺しましょうからね。なにしろ、あなた、千人以上からの百姓の集まりでしょう。みんな気が立っ
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