の他、一時は下海道辺の問屋から今渡《いまど》の問屋仲間を相手にこの界隈《かいわい》の入り荷|出荷《でに》とも一手に引き受けて牛方事件の紛争まで引き起こした旧問屋|角屋《かどや》十兵衛の店などは、皆そこに集まっている。今度の百姓一揆はその町の空を大橋の辺から望むところに起こった。うそか、真実《まこと》か、竹槍《たけやり》の先につるした蓆《むしろ》の旗がいつ打ちこわしにかつぎ込まれるやも知れなかったようなうわさが残っていて、横浜貿易でもうけた商家などは今だに目に見えないものを警戒しているかのようである。
中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人らは王事のために家を顧みる暇《いとま》のないような人たちである。こんな事件が突発するにつけても、日ごろのなおざりが思い出されて、地方《じかた》の世話も届きかねるのは面目ないとは家の人たちのかき口説《くど》く言葉だ。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。
「半蔵さん、あなたの前ですが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ。」
そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋《つまこ》う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠《かさ》を手にし草鞋《わらじ》をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。
三
さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子《でし》の勝重《かつしげ》の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者《たっしゃ》でいるし、あの昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪《たず》ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。
「おゝお師匠さまだ。」
という声がして、勝重がまず稲葉屋《いなばや》の裏口から飛んで来る。奥深い入り口の土間のところで、半蔵も平兵衛も旅の草鞋《わらじ》の紐《ひも》をとき、休息の時を送らせてもらうことにした。
しばらくぶりで半蔵の目に映る勝重は、その年の春から新婚の生活にはいり、青々とした月代《さかやき》もよく似合って見える青年のさかりである。半蔵は今度の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪《たず》ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田|鉄胤《かねたね》をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは勝重をもよろこばせたからで。
稲葉屋では、囲炉裏ばたに続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わすべき場処でもある。しばらく待つうちに、勝重の母親が半蔵らのところへ挨拶《あいさつ》に来た。めっきり鬢髪《びんぱつ》も白くなり、起居振舞《たちいふるまい》は名古屋人に似て、しかも容貌《ようぼう》はどこか山国の人にも近い感じのする主人公が、続いて半蔵らを迎えてくれる。その人が勝重の父親だ。落合宿の年寄役として、半蔵よりもむしろ彼の父吉左衛門に交わりのある儀十郎だ。
「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは。」と儀十郎が言った。「勝重のやつもあなたのおうわさばかり。あれが御祝言の前に、わざわざあなたにお越しを願って、元服の式をしていただいたことは、どれほどあれにはうれしかったかしれません。これはお師匠さまに揚げていただいた髪だなんて、今だによろこんでいまして。」
儀十郎はその時、裏口の方から顔を出した下男を呼んで、勝重が若い妻に客のあることを知らせるようにと言い付けた。
「よめも今、裏の方へ行って茄子《なす》を漬《つ》けています――よめにもあってやっていただきたい。」
こんな話の出ているところへ、勝重の母親が言葉を添えて、
「あなた、奥へ御案内したら。」
「じゃ、そうしようか。半蔵さんもお急ぎだろうが、茶を一つ差し上げたい。」
とまた儀十郎が言った。
やがて半蔵が平兵衛と共に案内されて行ったところは、二間《ふたま》続きの奥まった座敷だ。次ぎの部屋《へや》の方の片すみによせて故人|蘭渓《らんけい》の筆になった絵屏風《えびょうぶ》なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出られる。美濃派の俳諧
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