主《ていしゅ》までが半蔵にはなじみの顔である。
「いや、はや、今度の旅は雨が多くて閉口しましたよ。こちらの方はどうでしたろう。」と半蔵がそれをきいて見る。
「さようでございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留めになりますし、木曾《きそ》の方でもだいぶ痛んだように承ります。もうお天気も定まったようで、この暑さじゃ大丈夫でございますが、一時は心配いたしました。」
 との亭主の答えだ。
 この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓|一揆《いっき》で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠《はやかご》を急がせたということをも知った。
「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ。」
 と言って、半蔵は平兵衛と顔を見合わせたが、騒ぐ胸は容易に沈まらなかった。
 こんな時の平兵衛は半蔵の相談相手にはならない。平兵衛はからだのよく動く男で、村方の無尽《むじん》をまとめることなぞにかけてはなくてならないほど奔走周旋をいとわない人物だが、こんな話の出る時にはたったりすわったりして、ただただ聞き手に回ろうとしている。
「すこし目を離すと、すぐこれです。」
 平兵衛は峠村の組頭《くみがしら》らしく、ただそれだけのことを言った。彼は旅籠屋《はたごや》の廊下に出て旅の荷物を始末したり、台所の方へ行って半蔵のためにぬれた合羽《かっぱ》を乾《ほ》したりして、そういう方にまめまめと立ち働くことを得意とした。
「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ。」
 と半蔵は考えた。こんな出来事は何を意味するのか、時局の不安はこんなところへまで迷いやすい百姓を追い詰めるのか、窮迫した彼らの生活はそれほど訴える道もないのか、いずれとも半蔵には言うことができない。それにしても、あの東山道総督の一行が見えた時、とらえようとさえすればとらえる機会は百姓にもあった。彼らの訴える道は開かれてあった。年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来たからである。だれ一人《ひとり》、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。
 にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀|買〆《かいしめ》のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。


 中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主《おも》なものは東濃|界隈《かいわい》の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠《つまご》、三留野《みどの》、野尻《のじり》、在方《ざいかた》としては蘭村《あららぎむら》、柿其《かきそれ》、与川《よがわ》その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村《こまばむら》の入り口に屯集《とんしゅう》し、中津川大橋の辺から落合《おちあい》の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人《そうやくにん》中がとりあえず鎮撫《ちんぶ》につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留《とうりゅう》していて、容易に退散する気色《けしき》もなかったとか。
 半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子《こうし》はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風《かみがたふう》な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井《ならい》辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸《きいと》売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。万屋安兵衛《よろずややすべえ》、大和屋李助《やまとやりすけ》、そ
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