に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。


 時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯|貢士《こうし》の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長《さっちょう》人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱《いだ》くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代《いなわしろ》の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後《うしろ》にあって京都の守護をもって自ら任じた会津《あいづ》武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽《ふしみとば》の戦さに敗れた彼らは仙台藩《せんだいはん》等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀《こぼ》たれるのいわれなきことを弁疏《べんそ》し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。
 こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口《えちごぐち》への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯《がえん》じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊《しょうぎたい》の戦士、輪王寺《りんのうじ》の宮《みや》が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽《おうう》征討のうわさで持ち切っていた。
 新政府が財政困難の声も高い。こんな東征軍を動かすほどの莫大《ばくだい》な戦費を支弁するためからも、新政府の金札(新紙幣)が十円から一朱までの五種として発行されたのは、半蔵がこの旅に出てからのことであった。ところが今日の急に応じてひそかに武器を売り込んでいる外国政府の代理人、もしくは外国商人などの受け取ろうとするものは、日本の正金である。内地の人民、ことに商人は太政官の準備を危ぶんで新しい金札をよろこばない。これは幕府時代からの正銀の使用に慣らされて来たためでもある。それかあらぬか、新紙幣の適用が仰せ出されると間もなく、半蔵は行く先の商人から諸物価のにわかな騰貴を知らされた。昨日は一|駄《だ》の代金二両二分の米が今日の値段は三両二分の高値にも引き上げたという。小売り一升の米の代が急に四百二十四文もする。会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順だ。いろいろと起こって来た事情は旅をも困難にした。

       二

 京都から大湫《おおくて》まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙《ひな》びた宿場で、その小駅から東は美濃《みの》らしい盆地へと降りて行くばかりだ。三里半の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。
 百三十日あまり前に東山道軍の先鋒隊《せんぽうたい》や総督御本陣なぞが錦《にしき》の御旗《みはた》を奉じて動いて行ったのも、その道だ。畠《はたけ》の麦は熟し、田植えもすでに終わりかけるころで、行く先の立場《たてば》は青葉に包まれ、草も木も共に六月の生気を呼吸していた。長雨あげくの道中となれば、めっきり強い日があたって来て、半蔵も平兵衛も路傍の桃の葉や柿《かき》の葉のかげで汗をふくほど暑い。
「でも、半蔵さま、歩きましたなあ。なんだかおれはもうよっぽど長いこと家を留守にしたような気がする。」
「馬籠《まごめ》の方でも、みんなどうしているかさ。」
「なんだぞなし。きっと、今ごろは田植えを済まして、こちらのうわさでもしていませず。」
 こんな話をしながら、二人《ふたり》は道を進んだ。
 時には、また街道へ雨が来る。青葉という青葉にはもうたくさんだと思われるような音がある。せっかくかわいた道路はまた見る間にぬれて行った。笠《かさ》を傾《かたぶ》けるもの、道づれを呼ぶもの、付近の休み茶屋へとかけ込むもの、途中で行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい雨である。予定の日数より長くなった今度の旅といい、心にかかる郷里の方のうわさといい、二人ともに帰路を急いでいて、途中に休む気はなかった。たとい風雨の中たりともその日の午後のうちに三里半の峠を越して、泊まりと定めた大井の宿まではと願っていた。
 日暮れ方に、半蔵らは大井の旅籠屋《はたごや》にたどり着いた。そこまで帰って来れば、尾張《おわり》の大領主が管轄の区域には属しながら、年貢米《ねんぐまい》だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は、中津川辺と同じ縄張《なわば》りの内にある。挨拶《あいさつ》に来る亭
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