ぞあの阿爺も安心しましょう。旧《ふる》い、旧い木曾福島の旦那《だんな》さまですからね。」
「そう言えば、景蔵さん、あの相良惣三のことを半蔵さんに話してあげたら。」と隣席にいる三郎兵衛が言葉を添える。
「壮士ひとたび去ってまた帰らずサ。これもよんどころない。三月の二日に、相良惣三の総人数が下諏訪の御本陣に呼び出されて、その翌日には八人の重立ったものが下諏訪の入り口で、断頭の上、梟首《さらしくび》ということになりました。そのほかには、片鬚《かたひげ》、片眉《かたまゆ》を剃《そ》り落とされた上で、放逐になったものが十三人ありました。われわれは君、一同連名で、相良惣三のために命|乞《ご》いをして見ましたがね、官軍の先駆なぞととなえて勝手に進退するものを捨て置くわけには行かないと言うんですからね――とうとう、われわれの嘆願もいれられませんでしたよ。」
 やがて客膳の並んだ光景がその奥座敷にひらけた。景蔵は隣席の三郎兵衛と共にすわり直して、馬籠本陣での昼じたくも一同が記念の一つと言いたげな顔つきである。
 時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府《すんぷ》に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸進撃に参加する日を急いで、甲州方面に入り込んだといううわさのある幕府方の新徴組を相手に、東山道軍最初の一戦を交えているだろうかとは、これまた諏訪帰りの美濃衆一同から話題に上っているころだ。
 その日の景蔵はあまり多くを語らなかった。半蔵の方でも、友だちと二人きりの心持ちを語り合えるようなおりが見いだせない。ただ景蔵は言葉のはじに、総督|嚮導《きょうどう》の志も果たし、いったん帰国した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。
「今の時は、一人でも多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい。」
 このことを景蔵は自己の動作や表情で語って見せていた。皆と一緒に膳にむかって、箸《はし》を取りあげる手つきにも。お民が心づくしの手料理を味わう口つきにも。
 美濃衆の多くは帰りを急いでいた。昼食を終わると間もなく立ちかけるものもある。あわただしい人の動きの中で、半蔵は友人のそばへ寄って言った。
「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話《みやげばなし》を置いて行きました。」


 二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠《じんがさ》割羽織に立附《たっつけ》を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装《いでたち》も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。
「ようやく。ようやく。」
 その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。
 何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附《たっつけ》の紐《ひも》を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂《ふろ》の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、
「香蔵さんもあの服装《なり》じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか。」
 こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。
 香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖《そで》に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「相良惣三もえらいことになりましたよ。」
 と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、
「その話は景蔵さんからも聞きました。」
「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。あの伏見鳥羽《ふしみとば》の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐《たす》けるもの。浪士を妨害するもの。唐物《とうぶつ》(洋品)の商法《あきない》をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮《ちゅうりく》を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。そういう内規があって、浪士数名
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