はたまげました。外国交際の話が出ると、すぐ万国公法だ。あれにはわたしも当てられて来ましたよ。あれだけは味噌《みそ》ですね。」
これは、縫助が半蔵のところに残して行った言葉だ。
伊那の谷をさして、広瀬村泊まりで立って行った客を送り出した後、半蔵はひとり言って見た。
「百姓にだって、ああいう頼もしい人もある。」
四
一行十三人、そのいずれもが美濃の平田門人であるが、信州|下諏訪《しもすわ》まで東山道総督を案内して、そこから引き返して来たのは、三日ほど後のことである。一行は馬籠宿昼食の予定で、いずれも半蔵の家へ来て草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。
本陣の玄関先にある式台のところは、これらの割羽織に帯刀というものものしい服装《いでたち》の人たちで混雑した。陣笠《じんがさ》を脱ぎ、立附《たっつけ》の紐をほどいて、道中のほこりをはたくものがある。足を洗って奥へ通るものがある。
「さあ、どうぞ。」
まッ先に玄関先へ飛んで出て、客を案内するのは清助だ。奥の間と中の間をへだてる襖《ふすま》を取りはずし、二|部屋《へや》通しの広々としたところに客の席をつくるなぞ、清助もぬかりはない。無事に嚮導《きょうどう》の役目を果たして来た十三人の美濃衆は、同じ門人仲間の半蔵の家に集まることをよろこびながら、しばらく休息の時を送ろうとしている。その中に、中津川の景蔵もいる。そこへ半蔵は挨拶《あいさつ》に出て、自宅にこれらの人たちを迎えることをめずらしく思ったが、ただ香蔵の顔が見えない。
「香蔵さんは、諏訪から伊那の方へ回りました。二、三日帰りがおくれましょう。」
そう言って見せる友人景蔵までが、その日はなんとなく改まった顔つきである。一行の中には、美濃の苗木《なえぎ》へ帰ろうとする人なぞもある。
「今度は景蔵さんも大骨折りさ。われわれは諏訪まで総督を御案内しましたが、あそこで軍議が二派に別れて、薩長はどこまでも中山道《なかせんどう》を押して行こうとする、土佐は甲州方面の鎮撫《ちんぶ》を主張する――いや、はや、大《おお》やかまし。」
「結局、双方へ分かれて行く軍を見送って置いて、あそこからわれわれは引き返して来ましたよ。」
こんな声がそこにもここにも起こる。
清助は座敷に出て半蔵を助けるばかりでなく、勝手口の方へも回って行って、昼じたくにいそがしいお民を助けた。囲炉裏ばたに続いた広い台所では、十三人前からの膳《ぜん》の用意がはじまっていた。にわかな客とあって、有り合わせのものでしか、もてなせない。切《き》り烏賊《いか》、椎茸《しいたけ》、牛蒡《ごぼう》、凍り豆腐ぐらいを|煮〆《にしめ》にしてお平《ひら》に盛るぐらいのもの。別に山独活《やまうど》のぬた。それに山家らしい干瓢《かんぴょう》の味噌汁《みそしる》。冬季から貯《たくわ》えた畠《はたけ》の物もすでに尽き、そうかと言って新しい野菜はまだ膳に上らない時だ。
「きょうのお客さまは、みんな平田先生の御門人ばかり。」
とお粂《くめ》までが肩をすぼめて、それを母親のところへささやきに来る。この娘ももはや、皿小鉢《さらこばち》をふいたり、割箸《わりばし》をそろえたりして、家事の手伝いするほどに成人した。そこにはおまんも裏の隠居所の方から手伝いに来ていた。おまんは、場合が場合だから、たとい客の頼みがないまでも、わざとしるしばかりに一献《いっこん》の粗酒ぐらいを出すがよかろうと言い出した。それには古式にしてもてなしたら、本陣らしくもあり、半蔵もよろこぶであろうともつけたした。彼女は家にある土器《かわらけ》なぞを三宝《さんぽう》に載せ、孫娘のお粂には瓶子《へいじ》を運ばせて、挨拶《あいさつ》かたがた奥座敷の方へ行った。
「皆さんがお骨折りで、御苦労さまでした。」
と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人《ひとり》として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。その隣に並んで、景蔵が席の末に着いている。その人の前にも彼女は土器《かわらけ》を白木の三宝のまま置いて、それから冷酒を勧めた。
「あなたも一つお受けください。」
「お母《っか》さん、これは恐れ入りましたねえ。」
景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「とにかく、けが人も出さずにね。」
「あの相良惣三《さがらそうぞう》の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕《けんまく》でしたなあ。」
「これも大勢《たいせい》でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書《うけしょ》を差し出しました。」
「吾家《うち》の阿爺《おやじ》なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さ
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