の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹《かか》らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師|鉄胤《かねたね》や先輩|暮田正香《くれたまさか》からのうれしい言伝《ことづて》を聞くことができた。
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久《いせきゅう》――あの亭主《ていしゅ》から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介《やっかい》なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
縫助はその調子だ。
美濃の大垣から、大井、中津川、落合《おちあい》と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護《まも》って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士《ごうし》、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。
「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね。」
と縫助も言って見せた。
旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵《こたつ》なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話《みやげばなし》をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直《ちょく》な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。
風の便《たよ》りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都|衣《ころも》の棚《たな》のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾《のれん》のかかった町のあたりを彷彿《ほうふつ》させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有《みぞう》の珍事とも言うべき外国公使の参内《さんだい》を正香と共に丸太町通りの町角《まちかど》で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺《しょうこくじ》から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いのかかった駕籠《かご》に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院《ちおんいん》を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人《ふたり》の攘夷家《じょういか》のあらわれた出来事のために沙汰止《さたや》みとなった。彼が暇乞《いとまご》いのために師鉄胤の住む錦小路《にしきこうじ》に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人《かみごいちにん》ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖《もと》り、国難を醸《かも》すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極《しごく》の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫《ねこ》も杓子《しゃくし》も万国公法を振り回すに
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