なって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠《じんがさ》をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶《くびおけ》がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間|梟首《さらしくび》の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。
因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女《きそおとめ》は色白で、そこいらの谷川に洗濯《せんたく》するような鄙《ひな》びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱《はず》かしめられた相手は、山の中の番太《ばんた》のむすめである。そんな話も出た。
因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。
「時に、本陣の御主人、拙者は途次《みちみち》仕置場《しおきば》のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか。」
「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます。」
「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから。」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。
「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速《さっそく》、村の大工をここへ呼んでもらいたい。」
一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋《ますだや》小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪《たけやぶ》へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円《まる》くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。
その中に宗太もいた。本陣の小忰《こせがれ》というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶《くびおけ》をさげて見た。
「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで。」
そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、
「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
としかった。
獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸《か》けられた。そのそばには規律の正しさ、厳《おごそ》かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹《よたか》も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持|松雲和尚《しょううんおしょう》に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋《うず》めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々《さまざま》な流言からも村民を護《まも》らねばならなかった。
三
三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋《うず》めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那《いな》南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》が美濃路《みのじ》を経て西の旅から帰って来た。
縫助は、先師|篤胤《あつたね》の稿本全部を江戸から伊那
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