いような顔をしている。」
「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ。」
とまたおまんが言うと、清助は首を振って、
「なあに、まるで赤の他人です。」
と無造作に片づけて見せた。
半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳《ぜん》についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。
「もっと皆が喜ぶかと思った。」
彼の述懐だ。
その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家《うち》じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉《し》めてある。半蔵はその居間に毛氈《もうせん》を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪《たず》ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州《さっしゅう》、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。
多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということがあったとか。土佐の片岡《かたおか》健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊《じんしょうたい》半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人《ひとり》であるが、大勢《おおきお》いのあまり本営を出るとすぐ堀溝《どぶ》に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細《ささい》なあやまちにも、薩州や長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮《じょうしゅうちぢみ》の唄《うた》にまでなぞらえて愚弄《ぐろう》するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩《こうちはん》の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。
「彼を殺せ。」
その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民《そうせいばんみん》のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。
相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂《くめ》は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛《ひな》をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。
どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目に
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