げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍《わだち》の跡を馬籠峠の上にも印《しる》して。
 一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導《きょうどう》として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙《へんぴ》な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪《ふくべ》にでも入れ、手造りにした物を皿《さら》にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日《きょう》という今日ではなかったか。昨日《きのう》、一昨日《おととい》のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難《かんなん》とを忍び、共に共に武家の奉公を耐《こら》え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来た。地方にあるものは安堵《あんど》して各自に世渡りせよ、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人《ひとり》百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡《かんか》、孤独、貧困の者は広く賑恤《しんじゅつ》するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美《ほうび》をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋|風情《ふぜい》ながらに新政府を護《も》り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。

       二

 御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場《といやば》と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉《とびら》を閉じ閂《かんぬき》を掛ける本陣の表門の潜《くぐ》り戸《ど》をくぐった。
「岩倉様の御兄弟《ごきょうだい》も、どの辺まで行かっせいたか。」
 例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野《みどの》か、野尻《のじり》かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。
「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし。」と佐吉が子供にたずねる。
「おれか。おれは石屋の坂で。」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵《にしきえ》から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下《あずまくだ》りの業平朝臣《なりひらあそん》だと思えば、間違いないなんて。」
「業平朝臣はよかった。」と清助も笑い出した。
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「えゝ、聞いた。」
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか。」
「そういう話です。」
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから。」
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
「しかし、清助さん、大垣《おおがき》のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもい
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