が江戸|金吹町《かなぶきちょう》の唐物店へ押しかけたと考えて見たまえ。前後の町木戸《まちきど》を閉《し》めて置いて、その唐物店で六連発の短銃を奪ったそうだ。それから君、幕府の用途方《ようどかた》で播磨屋《はりまや》という家へ押しかけた。そこの番頭を呼びつけて、新式な短銃を突きつけながら、貴様たちの頭には幕府しかあるまい、勤王の何物たるかを知るまい、もし貴様たちが前非を悔いるなら勤王の陣営へ軍資を献上しろ、そういうことを言ったそうだ。その時、子僧《こぞう》が二人《ふたり》で穴蔵の方へ案内して、浪士に渡した金が一万両の余ということさ。そういうやり方だ。」
「えらい話ですねえ。」
「なんでも、江戸|三田《みた》の薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。浪士隊は三方に手を分けて、例の三つの内規を江戸付近にまで実行した上、その方に幕府方の目を奪って置いて、何か事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙《すき》に乗じて和宮《かずのみや》さまを救い出す、それが真意であったとか聞きました。あの仲間のことだ、それくらいのことはやりかねないね。そういうさかんな連中がわれわれの地方へ回って来たわけさ。川育ちは川で果てるとも言うじゃありませんか。今度はあの仲間が自分に復讐《ふくしゅう》を受けるようなことになりましたね。そりゃ不純なものもまじっていましたろう。しかし、ただ地方を攪乱《こうらん》するために、乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いたと見られては、あの仲間も浮かばれますまい。」
 こんな話が始まっているところへ、お民は夫の友人をねぎらい顔に、一本|銚子《ちょうし》なぞをつけてそこへ持ち運んで来た。
「香蔵さん、なんにもありませんよ。」
「まあ、君、膝《ひざ》でもくずすさ。」
 夫婦してのもてなしに、香蔵も無礼講とやる。酒のさかなには山家の蕗《ふき》、それに到来物の蛤《はまぐり》の時雨煮《しぐれに》ぐらいであるが、そんなものでも簡素で清潔なのしめ膳《ぜん》の上を楽しくした。
「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ。」
「それはおたいていじゃありません。」
 この夫婦のかわす言葉を香蔵は引き取って言った。
「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます。」


「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母《っか》さんには内証だよ。」
 半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚《はばか》っていた。
「今夜は御幣餅《ごへいもち》でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています。」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください。」
「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃《くるみ》の香《かおり》は特別ですからね。」と香蔵もよろこぶ。
 半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい。」
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね。」
「わたしもそれは思う。」
「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居《しばい》全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない。」
「多勢の仕事となると、そういうものかねえ。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫《ひょうご》や大坂の開港開市というこ
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