十一軒も民家を焼いたのは、まずかった。」
「なにしろ、止めて止められるような人たちじゃありませんからね。風は蕭々《しょうしょう》として易水《えきすい》寒し、ですか。あの仲間はあの仲間で、行くところまで行かなけりゃ承知はできないんでしょう。さかんではあるが、鋭過《するどす》ぎますさ。」
「景蔵さん、君は何か考えることがあるんですか。」
「どうして。」
「どうしてということもありませんが、なんだかきょうはしかられてるような気がする。」
この半蔵の言葉に、景蔵も笑い出した。
「そう言えば半蔵さん、こないだもわたしは香蔵さんをつかまえて、どうもわれわれは目の前の事にばかり屈託して困る、これがわれわれの欠点だッて話しましたら、あの香蔵さんの言い草がいい。屈託するところが人間ですとさ。でも、周囲を見ると心細い。王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃありませんか。見たまえ、そよそよとした風はもう先の方から吹いて来ている。この一大変革の時に際会して、大局を見て進まないのはうそですね。」
「景蔵さん、君も気をつけて行って来たまえ。相良惣三に同情があると見た地方の有志は、全部呼び出して取り調べる――それがお役所の方針らしいから。」
そう言いながら、半蔵は寝覚《ねざめ》を立って行く友人と手を分かった。
「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか。」
景蔵はその言葉を残した。その時、半蔵は供の男をかえりみて、
「さあ、平兵衛さん、わたしたちもぽつぽつ出かけようぜ。」
そんなふうに、また半蔵らは馬籠をさして出かけた。
木曾谷は福島から須原《すはら》までを中三宿《なかさんしゅく》とする。その日は野尻《のじり》泊まりで、半蔵らは翌朝から下四宿《しもししゅく》にかかった。そこここの道の狭いところには、雪をかきのけ、木を伐《き》って並べ、藤《ふじ》づるでからめ、それで道幅を補ったところがあり、すでに橋の修繕まで終わったところもある。深い森林の方から伐り出した松明《たいまつ》を路傍に山と積んだようなところもある。上松《あげまつ》御陣屋の監督はもとより、近く尾州の御材木方も出張して来ると聞く。すべて東山道軍を迎える日の近づきつつあったことを語らないものはない。
時には、伊勢参宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通られなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな人たちの旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲《てっこう》をはめ、男と同じような参拝者の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。
次第に半蔵らは淡い雪の溶け流れている街道を踏んで行くようになった。歩けば歩くほど、なんとなく谷の空も明るかった。西から木曾川を伝って来る早い春も、まだまだ霜に延びられないような浅い麦の間に躊躇《ちゅうちょ》しているほどの時だ。それでも三留野《みどの》の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾《つぼみ》がすでにほころびかけていた。
午後に、半蔵らは大火のあとを承《う》けてまだ間もない妻籠の宿にはいった。妻籠本陣の寿平次《じゅへいじ》をはじめ、その妻のお里、めっきり年とったおばあさん、半蔵のところから養子にもらわれて来ている幼い正己《まさみ》――皆、無事。でも寿平次方ではわずかに類焼をまぬかれたばかりで、火は本陣の会所まで迫ったという。脇《わき》本陣の得右衛門《とくえもん》方は、と見ると、これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方《じかた》御役所でしかられて来たありのままを寿平次に告げに寄ったのは、この混雑の中であった。
もっとも、半蔵は往《い》きにもこの妻籠を通って寿平次の家族を見に寄ったが、わずかの日数を間に置いただけでも、板囲いのなかったところにそれができ、足場のなかったところにそれがかかっていた。そこにもここにも仮小屋の工事が始まって、総督の到着するまでにはどうにか宿場らしくしたいというそのさかんな復興の気象は周囲に満ちあふれていた。
寿平次は言った。
「半蔵さん、今度という今度はわたしも弱った。東山道軍が見えるにしたところで、君の方はまだいい。昼休みの通行で済むからいい。妻籠を見たまえ、この大火のあとで、しかも総督のお泊まりと来てましょう。」
「ですから、当日の泊まり客は馬籠でも分けて引き受けますよ。いずれ御先触《おさきぶ》れが来ましょう。そうしたら、おおよそ見当がつきましょう。得右衛門さんでも馬籠の方へ打ち合わせによこしてくださるさ。」
「おまけに、妻籠へ割り当てられた松明《たいまつ》も三千|把《ば》だ。いや、村のものは
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