、こぼす、こぼす。」
「どうせ馬籠じゃ、そうも要《い》りますまい。松明も分けますよ。」
 こんなことであまり長くも半蔵は邪魔すまいと思った。寿平次のような養父を得て無事に成長するらしい正己にも声をかけて置いて、そこそこに彼は帰村を急ごうとした。
「もうお帰りですか。」と言いながら、仕事着らしい軽袗《かるさん》ばきで、寿平次は半蔵のあとを追いかけて来た。
「あの大火のあとで、よくそれでもこれまでに工事が始められましたよ。」と半蔵が言う。
「みんな一生懸命になりましたからね。なにしろ、高札下《こうさつした》から火が出て、西側は西田まで焼ける。東側は山本屋で消し止めた。こんな大火はわたしが覚えてから初めてだ。でも、村の人たちの意気込みというものは、実にすさまじいものさ。」
 しばらく寿平次は黙って、半蔵と一緒に肩をならべながら、木を削るかんなの音の中を歩いた。やがて、別れぎわに、
「半蔵さん、世の中もひどい変わり方ですね。何が見えて来るのか、さっぱり見当もつかない。」
「まあ統一ができてからあとのことでしょうね。」
 と半蔵の方で言って見せると、寿平次もうなずいた。そして別れた。
 半蔵が供の平兵衛と共に馬籠の宿はずれまで帰って行ったころは、日暮れに近かった。そこまで行くと、下男の佐吉が宗太(半蔵の長男)を連れて、主人の帰りのおそいのを案じ顔に、陣場というところに彼を待ち受けていた。その辺には「せいた」というものを用いて、重い物を背負い慣れた勁《つよ》い肩と、山の中で働き慣れた勇健な腰骨とで、奥山の方から伐《き》り出して来た松明を定められた場所へと運ぶ村の人たちもある。半蔵と見ると、いずれも頬《ほお》かぶりした手ぬぐいをとって、挨拶《あいさつ》して行く。
「みんな、御苦労だのい。」
 そう言って村の人たちに声をかける時の半蔵の調子は、父|吉左衛門《きちざえもん》にそっくりであった。


 半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段《はしごだん》を上った。彼も妻子のところへ帰って来て、母屋《もや》の囲炉裏ばたの方で家のものと一緒に夕飯を済まし、食後に父をその隠居所に見に行った。
「ただいま。」
 この半蔵の「ただいま」が、炬燵《こたつ》によりかかりながら彼を待ち受けていた吉左衛門をも、茶道具なぞをそこへ取り出す継母のおまんをもまずよろこばせた。
「半蔵、福島の方はどうだったい。」
 と吉左衛門が言いかけると、おまんも付け添えるように、
「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家《うち》へも寄って行ってくれたよ。」
「そうでしたか。景蔵さんには寝覚《ねざめ》で行きあいましたっけ。まあ、お役所の方も、お叱《しか》りということで済みました。つまらない疑いをかけられたようなものですけれど、今度のお呼び出しのことは、お父《とっ》さんにもおわかりでしょう。」
「いや、わかるどころか、あんまりわかり過ぎて、おれは心配してやったよ。お前の帰りもおそいものだからね。」
 こんな話がはじまっているところへ、母屋《もや》の方にいた清助も裏二階の梯子段《はしごだん》を上って来た。無事に帰宅した半蔵を見て、清助も「まあ、よかった」という顔つきだ。
「半蔵、お前の留守に、追分《おいわけ》の名主《なぬし》のことが評判になって、これがまた心配の種さ。」と吉左衛門が言って見せた。
「それがです。」と清助もその話を引き取って、「あの名主は親子とも入牢《にゅうろう》を仰せ付けられたとか、いずれ追放か島流しになるとか、いろいろなことを言いましょう。まさか、そんなばかばかしいことが。どうせ街道へ伝わって来るうわさだぐらいに、わたしどもは聞き流していましたけれど、村のうわさ好きな人たちと来たら、得ていろいろなことを言いたがる。今度は本陣の旦那《だんな》も無事にお帰りになれまいなんて。」
 吉左衛門は笑い出した。そして、追分の名主のことについて、何がそんな評判を立てさせたか、名主ともあろうものが腰縄《こしなわ》手錠で松代藩《まつしろはん》の方へ送られたとはどうしたことか、そのいぶかしさを半蔵にたずねた。そういう吉左衛門はいまだに宿駅への関心を失わずにいる。
「お父《とっ》さん、そのことでしたら。」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩《こもろはん》から捕手《とりて》が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さでもする気になって、追分の民家を十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の名主の手で行き渡らないと言うんです。偽《にせ》官軍の落として行った三百両の金も、焼失人へは割り渡らないと言うんです。あの名主は貧民を救えと言われて、偽官軍から米を十六俵も受け取りながら、その米も貧民へは割り
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