て見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕《まくら》もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩《さつま》や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
その中には、開城の前夜に芝《しば》増上寺《ぞうじょうじ》山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々《さまざま》な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討《う》ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗《きんき》を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧|旗下《はたもと》の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類《たぐい》のみがそこここに据《す》え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸|八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。
「お父《とっ》さん、ここに神谷《かみや》八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。」
「西丸の大手から、神田橋《かんだばし》、馬場先《ばばさき》、和田倉門《わだくらもん》、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね。」
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということ
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