になったのだね。」
「待ってください。ここに静寛院《せいかんいん》さまと、天璋院《てんしょういん》さまのことも出ています。この静寛院さまとは、和宮《かずのみや》さまのことです。お二人《ふたり》とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ。」
「へえ、そうあるかい。」とおまんがそれを引き取って、「お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入《おこしい》れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから。」
「まあ、待ってください。天璋院さまには、こんな話もありますね。以前、十四代将軍のところへ、和宮さまをお迎えになって、言わばお姑《しゅうと》さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです、すぐに自分の席には着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり自分の方が上座に着いたとも言いますね。こうすっくと侍女の中からたち上がったところは、いかにもその人らしい。あの話は今だに忘れられません。ごらんなさい、天璋院さまはそういう人でしょう。今度、城を明け渡すについては、和宮さまは田安《たやす》の方へお移りになるから、あなたは一橋家の方へお移りなさいと言われても、容易に天璋院さまは動かなかったとありますね。それを無理にお連れ申したようなことが、この覚え書きの中にも出ていますよ。」
「あわれな話だねえ。」と吉左衛門はそれを聞いたあとで言った。


「まあ、お話に気を取られて、わたしはまだお茶も入れてあげなかった。」
 おまんは次ぎの部屋《へや》の方へ立って行って、小屏風《こびょうぶ》のわきに茶道具なぞ取り出す音をさせた。
「半蔵、」と吉左衛門は床の上に静坐《せいざ》しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう。」
「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね。」
「どうも、えらいことを聞かされるぞ。この御一新はどこまで及んで行くのか、見当もつかない。」
「そりゃ、お父《とっ》さん――どうせやるなら、そこまで思い切ってやれという論のようです。」
 こんな言葉をかわしているところへ、おまんは隣家の伏見屋からもらい受けたという新茶を入れて来た。時節がらの新茶は香《かお
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