が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑《のどか》な城下町ではもとよりない。
 町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴《け》って出て行く早駕籠《はやかご》もある。
 流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩《やから》があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑《ちゃの》み噺《ばなし》にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸|講中《こうじゅう》の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏《いろり》ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪《まつまき》の燃える香気《におい》が彼の鼻の先へ来た。二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。
「おれは葵《あおい》の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ。」
「今はそんな時世じゃねえぞ。」
 二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。
「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ。」
「そんなら君は、どっちの人間だい。」
「うん――おれは勤王で、佐幕だ。」
 時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。


 地方《じかた》御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰《さた》を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈《あんどん》のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河《かわ》から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。
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