彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。
 もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江《おうみ》の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的《さんがくてき》な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たものではない。
 そこへ東山道軍の進発だ。各藩ともに、否《いや》でも応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を重く用い、大義名分を明らかにすることによって、時代の暗礁《あんしょう》を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸《おこなんど》、年寄《としより》、用人らの佐幕派として知られた人たちは皆退けられてしまった。その時になっても、山村氏の家中衆だけは長い武家時代の歴史を誇りとし、頑《がん》として昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として独立を思う声さえ起こって来ている。徳川氏と存亡を共にする以外に、この際、情誼《じょうぎ》のあるべきはずがないと主張し、神祖の鴻恩《こうおん》も忘れるような不忠不義の輩《やから》はよろしく幽閉せしむべしとまで極言するものもある。
「福島もどうなろう。」
 半蔵はそのことばかり考えつづけた。その晩は彼は平兵衛の蒲団《ふとん》を自分のそばに敷かせ、道中用の脇差《わきぎし》を蒲団の下に敷いて、互いに枕《まくら》を並べて寝た。

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