れるほどの討幕の火ぶたを切ったのも、またこの相良惣三および同志のものであったのだ。
意外にも、この一行の行動を非難する回状が、東山道総督執事から沿道諸藩の重職にあてて送られた。それには、ちかごろ堂上の滋野井《しげのい》殿や綾小路《あやのこうじ》殿が人数を召し連れ、東国|御下向《ごげこう》のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもってお差し向けになったものではない、全く無頼《ぶらい》の徒が幼稚の公達《きんだち》を欺いて誘い出した所業と察せられると言ってある。綾小路殿らはすでに途中から御帰京になった、その家来などと唱え、追い追い東下するものがあるように聞こえるが、右は決して東山道軍の先駆でないと言ってある。中には、通行の途次金穀をむさぼり、人馬賃銭不払いのものも少なからぬ趣であるが、右は名を官軍にかりるものの所業であって、いかようの狼藉《ろうぜき》があるやも測りがたいから、諸藩いずれもこの旨《むね》をとくと心得て、右等の徒に欺かれないようにと言ってある。今後、岩倉殿の家来などと偽り、右ようの所業に及ぶものがあるなら、いささかも用捨なくとらえ置いて、総督御下向の上で、その処置を伺うがいいと言ってある。万一、手向かいするなら、討《う》ち取ってもくるしくないとまで言ってある。
こういう回状は、写し伝えられるたびに、いくらかゆがめられた形のものとなることを免れない。しかし大体に、東山道軍の本営でこの自称先駆の一行を認めないことは明らかになった。
「偽《にせ》官軍だ。偽官軍だ。」
さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩《こもろはん》の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼らのために便宜を計ったものは、すべて偽官軍の徒党と言われるほどのばからしい流言の渦中《かちゅう》に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢《かるいざわ》、沓掛《くつかけ》から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の藩からのきびしい詰問を受けるようになった。そればかりではない、惣三らの通り過ぎた木曾路から美濃地方にまでその意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。
そこは木曾福島の地方《じかた》御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる木曾川の上流に臨み、憂鬱《ゆううつ》なくらいに密
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