小路《あやのこうじ》二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合《おちあい》の両宿から信濃境《しなのざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠の上をも通り過ぎて行った。あるところでは、藩の用人や奉行《ぶぎょう》などの出迎いを受け、あるところでは、本陣や問屋などの出迎いを受けて。
「もう、先駆がやって来るようになった。」
 この街道筋に総督を待ち受けるほどのもので、それを思わないものはない。一行の大砲や武装したいでたちを見るものは来たるべき東山道軍のさかんな軍容を想像し、その租税半減の旗を望むものは信じがたいほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪《しもすわ》に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川《ちくまがわ》を渡って、追分《おいわけ》の宿にまで達した。
 なんらの抵抗を受けることもなしに、この一行が近江《おうみ》と美濃と信濃の間の要所要所を通り過ぎたことは、それだけでも東山道軍のためによい瀬踏みであったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも、どこに譜代大名のだれを置き、どこに代官のだれを置くというような、その要所要所の手配りは実に旧幕府の用心深さを語っていたからで。彦根《ひこね》の井伊氏《いいし》、大垣《おおがき》の戸田氏、岩村の松平《まつだいら》氏、苗木《なえぎ》の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪《すわ》氏――数えて来ると、それらの大名や代官が黙ってみていなかったら、なかなか二門の大砲と、百二十余人の同勢で、素通りのできる道ではなかったからで。
 この一行はおもに相良惣三《さがらそうぞう》に率いられ、追分に達したその部下のものは同志金原忠蔵に率いられていた。過ぐる慶応三年に、西郷吉之助が関東方面に勤王の士を募った時、同志を率いてその募りに応じたのも、この相良惣三であったのだ。あの関西方がまだ討幕の口実を持たなかったおりに、進んで挑戦的《ちょうせんてき》の態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱《こうらん》を試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩《しょうないはん》との衝突となったのも、三田《みた》にある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって、西の方に起こって来た伏見鳥羽の戦いも実はそれを導火線とすると言わ
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