尽くす志あるの輩《ともがら》は寛大の思し召しをもって御採用あらせらるべく、もしまた、この時節になっても大義をわきまえずに、賊徒と謀《はかりごと》を通ずるような者は、朝敵同様の厳刑に処せられるであろう。この布告が東山道総督執事の名で発表せらるると同時に、それを読んだ藩士らは皆、到底現状の維持せられるべくもないことを知った。さすがに、ありし日の武家時代を忘れかねるものは多い。あるいは因循姑息《いんじゅんこそく》のそしりをまぬかれないまでも、君侯のために一時の安さをぬすもうと謀《はか》るものがあり、あるいは両端を抱《いだ》こうとするものがある。勤王か、佐幕か――今や東山道方面の諸藩は進んでその態度を明らかにすべき時に迫られて来ていた。
慶喜と言えば、彼が過ぐる冬十月の十二日に大小|目付《めつけ》以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時、あるいは政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないかと言って、退位後の諸藩の末を案じながら将軍職を辞して行ったのもあの慶喜だ。いかにせば幕府の旧勢力を根からくつがえし、慶喜の問題を処分し、新国家建設の大業を成し就《と》ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題である。よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時に萌《きざ》して来た有力な意見であった。この説は主として土佐藩の人たちによって唱えられたが、これには反対するものがあって、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩《さつま》の西郷吉之助《さいごうきちのすけ》のような人の口から言い出されたことだという。もはや、論議の時は過ぎて、行動の時がそれに代わっていた。
この形勢をみて取った有志の間には、進んで東征軍のために道をあけようとする気の速い連中もある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の先駆ととなえる百二十余人の同勢は本営に先立って、二門の大砲に、租税半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。
二
京坂地方では例の外国使臣らの上京参内を許すという未曾有《みぞう》の珍事で騒いでいる間に、西から進んで来た百二十余人の同勢は、堂上の滋野井《しげのい》、綾
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