ないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵《あんど》して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡《かんか》、孤独、貧困の民どもは広く賑恤《しんじゅつ》する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美《ほうび》をやる思《おぼ》し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨《えいし》であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。
 こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背《こうはい》のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽《ふしみとば》の戦いが会津《あいづ》方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩《おおがきはん》のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟|憤発《ふんぱつ》して国家に
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