千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠《まごめ》宿の囲いうちにのみかぎらない。上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、三留野《みどの》、妻籠《つまご》の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村《かきそれむら》のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木《ひのき》類の枝を伐採する場所と、元木《もとぎ》の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明《たいまつ》の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋|最寄《もよ》りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明《たいまつ》一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和《やまと》五条にも、生野《いくの》にも、筑波山《つくばさん》にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起《ほうき》しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王《たるひとしんのう》を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。
地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就《と》げられたためしの
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