己も仕合わせです。」
 やがて寿平次らは離れて行った。半蔵はそのまま自分の家にはいろうとしなかった。その足で坂になった町を下の方へと取り、石屋の坂の角《かど》を曲がり、幾層にもなっている傾斜の地勢について、荒町《あらまち》の方まで降りて行った。荒町には村社|諏訪《すわ》分社がある。その氏神への参詣《さんけい》を済ましても、まだ彼は家の方へ引き返す気にならなかった。この宿場で狸《たぬき》の膏薬《こうやく》なぞを売るのも、そこを出はずれたところだ。路傍には大きく黒ずんだ岩石がはい出して来ていて、広い美濃《みの》の盆地の眺望《ちょうぼう》は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山《えなさん》の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれるところまで歩いて行って見ると、彼は胸いっぱいの声を揚げて叫びたい気になった。
 寿平次が残して置いて行ったいろいろな言葉は、まだ彼の胸から離れなかった。大概の事をばかにしてひとり弓でもひいていられる寿平次に比べると、彼は日常生活の安逸をむさぼっていられなかったのだ。やがて近づいて来る庚申講《こうしんこう》の夜、これから五か月もの長さにわたって続いて行く山家の寒さ、石を載せた板屋根でも吹きめくる風と雪――人を眠らせにやって来るようなそれらの冬の感じが、破って出たくも容易に出られない一切の現状のやるせなさにまじって、彼の胸におおいかぶさって来ていた。
 しかし、歩けば歩くほど、彼は気の晴れる子供のようになって、さらに西の宿はずれの新茶屋の方へと街道の土を踏んで行った。そこには天保十四年のころに、あの金兵衛が亡父の供養にと言って、木曾路を通る旅人のために街道に近い位置を選んで建てた芭蕉《ばしょう》の句碑もある。とうとう、彼は信濃《しなの》と美濃の国境《くにざかい》にあたる一里塚《いちりづか》まで、そこにこんもりとした常磐木《ときわぎ》らしい全景を見せている静かな榎《え》の木の下まで歩いた。
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     第九章

       一

 江戸の町々では元治《げんじ》元年の六月を迎えた。木曾街道《きそかいどう》方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨《すがも》の立場《たてば》、本郷《ほんごう》森川宿なぞを通り過ぎて、両国《りょうごく》の旅籠屋《はたごや》十一屋に旅の草鞋《わらじ》をぬいだ三人の木曾の庄屋《しょうや》がある。
 この庄屋たちは江戸の道中奉行《どうちゅうぶぎょう》から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来たのである。その中に半蔵も加わっていた。もっとも、木曾の上四宿からは贄川《にえがわ》の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠《まごめ》から来た半蔵は下四宿の総代としてであった。
 五月下旬に半蔵は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人《ふたり》の庄屋――福島の幸兵衛《こうべえ》、贄川《にえがわ》の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に落ちつくことを便宜とした。そこには木曾出身で世話好きな十一屋の隠居のような人があるからで。
「早いものでございますな。あれから、もう十年近くもなりますかな。」
 十一屋の隠居は半蔵のそばに来て、旅籠屋の亭主《ていしゅ》らしいことを言い出す。この隠居は十年近くも前に来て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀《よこすか》在へかけての以前の旅の連れは妻籠《つまご》本陣の寿平次であったことまでよく覚えていた。
「そりゃ、十一屋さん、この前にわたしたちが出て来ました時は、まだ横浜開港以前でしたものね。」
「さよう、さよう、」と隠居も思い出したように、「あれから宮川寛斎先生も手前どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋《よろずや》さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川《かながわ》の牡丹屋《ぼたんや》へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまにはごひいきにしてくださいまして、ありがとうございます。」
 そういう隠居も大分《だいぶ》年をとったが、しかし元気は相変わらずだ。この宿屋には隠居に見比べると親子ほど年の違うかみさんもある。親子かと思えば、どうもそうでもないようだし、夫婦にしては年が違いすぎる。そう半蔵も以前の旅には想《おも》って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
 見るもの聞くもの半蔵には過ぐる年の旅の記憶をよび起こした。あれは安政三年で、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田|鉄胤《かねたね》を知り、その子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどらせたくらいのころだ。なんと言ってもあのころの徳川政府の威信はまだまだ全国を圧していた。
 十年近い月日はいかに半蔵の周囲を変え、今度踏んで来た街道の光景までも変えたことか。道中奉行からのお呼び出しで、半蔵も自分の宿場を離れて来て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発《ひんぱつ》する暴動ざたが幕府を驚かしてか、宿村の取り締まりも実に厳重をきわめるようになった。半蔵が国を出るころは、街道に怪しいものは見つけ次第注進せよと言われていた。ひとり旅の者はもちろん、怪しい浪人体のものは休息させまじき事、俳諧師《はいかいし》生花師《いけばなし》等の無用の遊歴は差し置くまじき事、そればかりでなく、狼藉者《ろうぜきもの》があったら村内打ち寄って取り押え、万一手にあまる場合は切り捨てても鉄砲で打ち殺しても苦しくないというような、そんな御用達所からのお書付が宿々村々へ渡っていた。
 江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追分宿《おいわけじゅく》の名主《なぬし》文太夫《ぶんだゆう》の家へも寄って来た。あの地方では取締役なるものができ、村民は七名ずつ交替で御影《みかげ》の陣屋を護《まも》り、強賊や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講ずるというほどの騒ぎだ。その陣屋には新たに百二十間あまりの柵矢来《さくやらい》が造りつけられ、非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹鎗《たけやり》、袖《そで》がらみ、六尺棒、松明《たいまつ》なぞを備え置くという。村内のものでも長脇差《ながわきざし》を帯びるか、または無宿者《むしゅくもの》を隠し泊めるかするものがあればきびしく取り締まるようになって、毎月五日には各村民が陣屋に参集するという。この申し合わせに加わる村々は、北佐久《きたさく》、南佐久の方面で七十四か村にも及んでいる。いかに生活難に追い詰められた無宿浮浪の群れが浪人のまねをしたり大刀を帯びたりしてあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、村民各自に自警団を組織するほどのぎょうぎょうしいことはまだ木曾地方にはない。それをしなければ小前《こまえ》のものが安心して農業家業に従事し得られないというほどのことはない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだと言っている。どうして些細《ささい》のことにも気を配って、互いに助け合うことなしに踏んで出て来られる八十里の道ではなかったのだ。
 さしあたり一行三人のものの仕事は、当時の道中奉行|都筑駿河守《つづきするがのかみ》が役宅を訪《たず》ね、今度総代として来たことを告げ、木曾宿々から取りそろえて来た人馬立辻帳《じんばたてつじちょう》なぞを差し出すことであった。
 言うまでもなく、その帳簿には過ぐる一年間の人馬徴発の総高が計算してある。最初に半蔵らが奉行の屋敷に出た日には、徒士目付《かちめつけ》が応接に出て、奉行へは自分から諸事取り次ぐであろうとの話があった末に、今度三人の庄屋を呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた。徒士目付の口ぶりによると、いずれ奉行から改めてお呼び出しがあるであろう、そのおりは木曾地方における人馬|継立《つぎた》ての現状を問いただされるであろう、そんなことで半蔵らは引き取って来た。同行の幸兵衛、平助、共に半蔵から見ればずっと年の違った人たちで、宿駅のことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋《はたごや》まで戻《もど》って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の成り行きに額《ひたい》を鳩《あつ》めた。


 参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々は、あだかも大きな潮の引いて行ったあとのようになった。
 二度目に来てこの大きな都会の深さにはいって見る半蔵の目には、もはや江戸城もない。過ぐる文久三年十一月十五日の火災で、本丸、西丸、共に炎上した。将軍家ですら田安御殿《たやすごてん》の方に移り住むと聞くころだ。西丸だけは復興の工事中であるが、それすら幕府御勘定所のやり繰りで、諸国の町人百姓から上納した百両二百両のまとまった金はもとより、一朱二朱ずつの細かい金まではいっている御普請上納金より成り立つことは、半蔵のように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
 しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢《すうせい》に着眼して幕政改革の意見を抱《いだ》いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧《ふる》い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前《えちぜん》の松平春嶽《まつだいらしゅんがく》から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡《きんり》守衛総督摂海|防禦《ぼうぎょ》指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌《ないこう》の消息を語っていた。
 それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しうるか、どうかは、半
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