1字下げ]
    宿村へ仰せ渡され候書付
「方今の御時勢、追い追い伝聞いたしおり申すべく候《そうら》えども、上方辺《かみがたへん》の騒動容易ならざる事にこれあり、右残党諸所へ散乱いたし候につき、御関所においてもその取り締まり方、御老中より御話し相成りし次第に候。なおまた、中山大納言殿御嫡子(忠光)の由に申し立て、浪人数十人召し連れ、御陣屋向きに乱暴いたし候ものこれあり、御取り締まり方、国々へ仰せ出されよとのお触れもこれあり候。加うるに、薩州長州においては夷船《えびすぶね》打ち払い等これあり、公辺においてもいよいよ攘夷御決定との趣にも相聞こえ、内乱|外寇《がいこう》何時《なんどき》相発し候儀も計りがたき時節に候。木曾の儀、辺土とは申しながら街道筋にこれあり候えば、もはや片時も油断相成りがたく、宿村役人においてもかかる容易ならざる御時勢をとくと弁別いたされ、申すにも及ばざる儀ながら木曾谷|庄屋《しょうや》問屋《といや》年寄《としより》などは多く旧家筋の者にこれあり候につき、万一の節はひとかどの御奉公相勤め候心得にこれあるべく候。なお、右のほか、帯刀御免の者、ならびに旧家の者などへもよくよく申し諭《さと》し、随分武芸心がけさせ候よういたすべく候……」
[#ここで字下げ終わり]
 半蔵はこの書付を伊之助から受け取って見て、公辺からの宿村の監視がいよいよ厳重になって行くことを知った。同時に、諸所へ散乱したという禁裏百姓の残党の中には、必ず平田門下の人もあるべきことをほとんど直覚的に感知した。
 当時、平田|篤胤《あつたね》没後の門人は諸国を通じて千人近くに達するほどの勢いで、その中には古学の研究と宣伝のみに満足せず、自ら進んで討幕運動の渦中《かちゅう》に身を投ずるものも少なくなかった。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香《くれたまさか》のような例もある。今また何かの姿に身をやつして、伊那《いな》の谷のことを聞き伝え、遠く大和《やまと》地方から落ちて来る人のないとは半蔵にも言えなかった。
「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命《いのち》をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い。」
 そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居《もとおり》平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那《だんな》様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
 木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方《いずかた》に一戦が始まるとしても近ごろは穀留《こくど》めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯《たくわ》えのある村もあろうが、上松《あげまつ》から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米《まい》の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別《にんべつ》名前を認《したた》め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣《そま》、木挽《こびき》等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒《りょうしづつ》の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。

       六

 江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠《まごめ》からもそのために出て行った蓬莱屋《ほうらいや》新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬|継立《つぎた》ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。
 もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠《つまご》の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人《ふたり》は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃《みの》の方面にあたる隣宿|落合《おちあい》まで公役を見送った。
「半蔵さん。」
 と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴《はかま》に雪駄《せった》ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣《かたぎぬ》は風呂敷包《ふろしきづつ》みにして佐吉の背中にあった。
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そうですよ。」
「よくあれで留守が続くと思う。」
「さあ、わたしもそれは心配しているんですよ。」
「騒がしい世の中になって来た。こんな時世でももうける人はもうける。」
 寿平次が半蔵と並んで話し話し歩いて行くうちに、石屋の坂の下あたりで得右衛門たちに追いついた。
「九郎兵衛さん、君はくわしい。」と寿平次は連れの方を見て言った。「飛騨《ひだ》の商人がはいり込んで来て、うんと四文銭を買い占めて行ったというじゃありませんか。」
「その話ですか。今の銭相場は一両で六貫四百文するところを、一両について四貫四百文替えに相談がまとまったとか言いましてね、金兵衛さんのところなぞじゃ四文銭を六|把《ぱ》も売ったと聞きました。」
 九太夫は大きなからだをゆすりゆすり答える。その時、得右衛門は妻籠からずっと同行して来た連れの肩をたたいて言った。
「寿平次さん、四文銭を六把で、いくらだと思います。二十七両の余ですよ。」
「いえ、今ね、こんな時世でももうける人はもうけるなんて、半蔵さんと話して来たところでさ。」
「違う。こんな時世だからもうけられるんでさ。」
 みんな笑って、馬籠の下町の入り口にあたる石屋の坂を登った。
 半蔵には、妻籠の客を二人とも自分の家に誘って、今後の街道や宿場のことについて語り合いたい心があり、馬籠ばかりでなく妻籠の方の人馬継立ての様子をも尋ねたい心があった。寿平次は寿平次で、この公役の見送りを機会に、かねて半蔵まで申し込んであった妹お民が三番目の男の子を妻籠の方へ連れて行って育てたいという腹で来た。いまだに子供を持たない寿平次が妻籠本陣での家庭をさみしがって、その話をかねて今度やって来たとは、半蔵は義理ある兄の顔を一目見たばかりの時にすでにそれと察していた。


「まあ、得右衛門さん、お上がりください。」
 お民は本陣の奥から上がり端《はな》のところへ飛んで出て来た。兄を見るばかりでなく、妻籠なじみの得右衛門を家に迎えることは、彼女としてもめずらしかった。
「はてな。阿爺《おやじ》も久しぶりでお目にかかりたいでしょうから、隠居所の方へ来ていただきましょうか。」
 そう半蔵は言って、その足で裏二階の方へ妻籠の客を案内した。
 間もなく吉左衛門の隠居|部屋《べや》では、「皆さん、袴《はかま》でもお取り。」という老夫婦の声を聞いた。
「お父《とっ》さん、いかがですか、その後御健康は。」と寿平次が尋ねる。
「いや、ありがとう。自分でも不思議なくらいにね、ますます快《よ》い方に向いて来たよ。こうして隠居しているのがもったいないくらいさ。」と吉左衛門は言って見せた。
 その時になって見ると、徳川政府が参覲交代のような重大な政策を投げ出したことは、諸藩分裂の勢いを助成するというにとどまらなかった。吉左衛門の言い草ではないが、その制度変革の影響はどこまで及んで行くとも見当がつかなかった。当時交通輸送の一大動脈とも言うべき木曾街道にまで、その影響は日に日に深刻に浸潤して来ていた。
 江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上った。そこには吉左衛門のようにすでに宿役を退いたもの、得右衛門のようにそろそろ若い者に代を譲る心じたくをしているもの、半蔵や寿平次のようにまだ経験も浅いものとが集まった。
「以前からわたしはそう言ってるんですが、助郷のことは大問題ですて。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、わたしのような昔者から見ると、もともと宿場と助郷は金銭ずくの関係じゃありませんでしたよ。人足の請負なぞをするものはもとよりなかった。助郷はみんな役を勤めるつもりで出て来ていました。参覲交代なぞがなくって、諸大名の奥方でも、若様でも、御帰国は御勝手次第ということになりましたろう。こいつは下のものに響いて来ますね。御奉公という心がどうしても薄らいで来ると思いますね。」
 退役以来、一切のことに口をつぐんでいるこの吉左衛門にも、陰ながら街道の運命を見まもる心はまだ衰えなかった。得右衛門はその話を引き取って、
「吉左衛門さん、無論それもあります。しかし、御変革の結果で、江戸屋敷の御女中がたが御帰りになる時に、あの御通行にかぎって相対雇《あいたいやと》いのよい賃銭を許されたものですから、あれから人足の鼻息が荒くなって来ましたよ。」
「そこが問題です。」寿平次が言う。
「待っておくれよ。そりゃ助郷が問屋場に来て見て、いろいろ不平もありましょうがね。宿《しゅく》助成ということになると、どうしてもみんなに分担してもらわんけりゃならんよ。こりゃ、まあお互いのことなんだからね。」とまた吉左衛門は言い添える。
「ところが、吉左衛門さん。」と得右衛門は言った。「御通行、御通行で、物価は上がりましょう。伝馬役《てんまやく》は給金を増せと言い出して来る。どうしても問屋場に無理ができるんです。助郷から言いますと、宿の御伝馬が街道筋に暮らしていて、ともかくもああして妻子を養って行くのに、その応援に来る在の百姓ばかり食うや食わずにいる法はないという腹ができて来ます。それに、ある助郷村には疲弊のために休養を許して、ある村には許さないとなると、お触れ当ては不公平だという声も起こって来ます。旧助郷と新助郷だけでも、役を勤めに出て来る気持ちは違いますからね。一概に助郷の不参と言いますけれど掘って見ると村々によっていろいろなものが出て来ますね。そりゃ問屋だって、あなた、地方地方によってどれほど相違があるかしれないようなものですよ。」
 その時、半蔵はそこにいる継母のおまんに頼んで母屋《もや》の方から清助を呼び寄せ、町方のものから申し出のあった書付を取り寄せた。それを一同の前に取り出して見せた。当時は諸色《しょしき》も高くなるばかりで、人馬の役を勤めるものも生活が容易でないとある。それには馬役、歩行役、ならびに七里役(飛脚を勤めるもの)の給金を増してほしいとある。伝馬一|疋《ぴき》給金六両、定歩行役《じょうほこうやく》一両二分、夏七里役一両二分、冬七里役一両三分と定めたいとある。
「こういうことになるから困る。」と得右衛門は言った。「宿の伝馬役が給金を増してくれと言い出すと、助郷だっても黙ってみちゃいますまい。」
「半蔵さん、君の意見はどうなんですか。」と寿平次がたずねる。
「そうですね。」と半蔵は受けて、「定助郷はぜひ置いてみたい。現在のありさまより無論いいと思います。しかし、自分一個の希望としては、わたしは別に考えることもあるんです。」
「そいつを話して見てください。」
「夢が多いなんて、また笑われても困る。」
「そんなことはありません。」
「まあ、お話しして見れば、たとえば公儀の御茶壺《おちゃつぼ》だとか、日光例幣使だとかですね、御朱印付きの証書を渡されている特別な御通行に限って、宿の伝馬役が無給でそれを継ぎ立てるような制度は改めたい。ああいう義務を負わせるものですから、伝馬役がわがままを言うようになるんです。継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷へ押しつけるというようなことが起こるんです。つまり、わたしの夢は、宿の伝馬役と助郷の区別をなくしたい。みんな助郷であってほしい。だれでも、同じように助郷には勤めに出るというようにしたい。」
「万民が助郷ですか。なるほど、そいつは遠い先の話だ。」
「でも、寿平次さん
前へ 次へ
全44ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング