混雑がようやく沈まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵《あおい》の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護《まも》られて行った。毎日のように美濃《みの》筋から入り込んで来た武家衆の泊まり客、この村の万福寺にまであふれた与力《よりき》、同心衆の同勢なぞもそれぞれ江戸方面へ向けて立って行った。将軍の還御《かんぎょ》を語る通行も終わりを告げた。その時になると、わずか十日ばかりの予定で入洛《じゅらく》した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江《おうみ》の伊吹山《いぶきやま》の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子《ちゃくし》を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺《おおながばなし》を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。
 七月にはいっても、まだ半蔵は連日の激しい疲労から抜け切ることができなかった。そろそろ茶摘みの始まる季節に二日ばかりも続いて来た夏らしい雨は、一層人を疲れさせた。彼が自分の家の囲炉裏ばたに行って見た時は、そこに集まる栄吉、清助、勝重から、下男の佐吉までがくたぶれたような顔をしている。近くに住む馬方の家の婆《ばあ》さんも来て話し込んでいる。この宿場で八つ当たりに当たり散らして行った将軍|御召馬《おめしうま》のうわさはその時になってもまだ尽きなかった。
「あの御召馬が焼酎《しょうちゅう》を一升も飲むというにはおれもたまげた。」
「御召馬なぞというと怒《おこ》られるぞ。御召御馬《おめしおうま》だぞ。」
「いずれ口取りの別当が自分に飲ませろということずらに。」
「嫌味《いやみ》な話ばかりよなし。この節、街道にろくなことはない。わけのわからないお武家様と来たら、ほんとにしかたあらすか。すぐ刀に手を掛けて、威《おど》すで。」
「あゝあゝ、今度という今度はおれもつくづくそう思った。いくら名君が上にあっても、御召馬を預かる役人や別当からしてあのやり方じゃ、下のものが服さないよ。お気の毒と言えばお気の毒だが、人民の信用を失うばかりじゃないか。」
「徳川の代も末になりましたね。」
 だれが語るともなく、だれが答えるともない話で、囲炉裏ばたには囲炉裏ばたらしい。中には雨に疲れて横になるものがある。足を投げ出すものがある。半蔵が男の子の宗太や正己《まさみ》はおもしろがって、その間を泳いで歩いた。
「半蔵さん、すこしお話がある。一つ片づいて、やれうれしやと思ったら、また一つ宿場の問題が起こって来ました。」
 と言って隣家から訪《たず》ねて来る伊之助を寛《くつろ》ぎの間《ま》に迎えて見ると、東山道通行は助郷人足不参のため、当分その整理がつくまで大坂御番頭の方に断わりを出そうということであった。
「なんでも木曾十一宿の総代として、須原《すはら》からだれか行くそうです。大坂まで出張するそうです。」
「それじゃ、伊之助さん、馬籠からも人をやりましょう。」
 半蔵は栄吉や清助をそこへ呼んで、四人でその人選に額《ひたい》を鳩《あつ》めた。
 参覲交代制度変革以来の助郷の整理は、いよいよこの宿場に働くものにとって急務のように見えて来た。過ぐる六月の十七日から二十八日にわたる荷送りを経験して見て、伊那方面の人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居《やしきずまい》から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業《はぎょう》も内部から崩《くず》れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの幕府の衰えというにとどまらなかった。その意味から言っても、半蔵は蓬莱屋《ほうらいや》新七が江戸出府の結果を待ち望んだ。
「そうだ。諸大名が朝参するばかりじゃない、将軍家ですら朝参するような機運に向かって来たのだ。こんな時世に、武家中心の参覲交代のような儀式をいつまで保存できるものか知らないが、しかし街道の整理はそれとは別問題だ。」
 と彼は考えた。
 旧暦七月半ばの暑いさかりに、半蔵は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱の外交とまで言われて支払い済みとなった生麦償金十万ポンドのほかに、被害者の親戚《しんせき》および負傷者の慰藉料《いしゃりょう》としてイギリスから請求のあった二万五千ポンドはそのままに残っていて、あの問題はどうなったろうとは、かねて多くの人の心にかかっていた。はたして、イギリスは薩州侯と直接に交渉しようとするほどの強硬な態度に出て、薩摩方ではその請求を拒絶したという。西からの飛脚が持って来たうわさはその談判の破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われたともいうことであった。

       五

「青山君――その後の当地の様子は鱗形屋《うろこがたや》の聞書《ききがき》その他の飛脚便によっても御承知のことと思う。大和国《やまとのくに》へ行幸を仰せ出されたのは去る八月十三日のことであった。これは攘夷《じょうい》御祈願のため、神武帝《じんむてい》御山陵ならびに春日社《かすがしゃ》へ御参拝のためで、しばらく御逗留《ごとうりゅう》、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中《らくちゅう》へ触れ出されたのを自分が知ったのは、柳馬場丸太《やなぎのばばまるた》[#ルビの「ばば」はママ]町|下《さが》ル所よりの来状を手にした時であった。これは実にわずか七日前のことに当たる。
 ――一昨日、十七日の夜の丑《うし》の刻《こく》のころ、自分は五、六発の砲声を枕《まくら》の上で聞いた。寄せ太鼓の音をも聞いた。それが東の方から聞こえて来た。あわやと思って自分は起き出し、まず窓から見ると、会津家《あいづけ》参内《さんだい》の様子である。そのうち自分は町の空に出て見て、火事装束《かじしょうぞく》の着込みに蓑笠《みのかさ》まで用意した一隊が自分の眼前を通り過ぐるのを目撃した。
 ――しばらく、自分には何の事ともわからなかった。もっとも御祭礼の神燈を明けの七つごろから出した町の有志があって、それにつれて総町内のものが皆起き出し、神燈を家ごとにささげなどするうち、夜も明けた。昨日になって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征|掛《がか》り、国事掛りの公卿《くげ》の参内もさし止められた。十七日の夜に参内を急いだのは、中川宮(青蓮院《しょうれんいん》)、近衛《このえ》殿、二条殿、および京都守護職松平|容保《かたもり》のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は筆紙に尽くしがたい。九門の前通りは皆往来止めになったくらいだ。
 ――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世《ひがしくぜ》、壬生《みぶ》、四条、錦小路《にしきこうじ》、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却するとのうわさがある。」
 こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。


 支配階級の争奪戦と大ざっぱに言ってしまえばそれまでだが、王室回復の志を抱《いだ》く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守《まきいずみのかみ》らの討幕運動にも一頓挫《いちとんざ》を来たしたについて、種々《さまざま》な事情がある。多くの公卿たちの中でも聡敏《そうびん》の資性をもって知られた伝奏|姉小路《あねがこうじ》少将(公知《きんとも》)が攘夷のにわかに行なわれがたいのを思って密奏したとの疑いから、攘夷派の人たちから変節者として目ざされ、朔平門《さくへいもん》の外で殺害された事変は、ことに幕府方を狼狽《ろうばい》せしめた。石清水《いわしみず》行幸のおりにすでにそのうわさのあった前侍従中山忠光を中心とする一派の志士が、今度の大和行幸を機会に鳳輦《ほうれん》を途中に擁し奉るというような風説さえ伝えられた。しかもこの風説は、大和地方における五条の代官鈴木源内らを攘夷の血祭りとした事実となってあらわれたのである。かねて公武合体の成功を断念し、政事総裁の職まで辞した越前藩主はこの形勢を黙ってみてはいなかった。同じ公武合体の熱心な主唱者の一人《ひとり》で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩《さつま》の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に面目をほどこし、たとい敵の退却が風雨のためであるとしても勝敗はまず五分五分で、薩摩方でも船を沈められ砲台を破壊され海岸の町を焼かれるなどのことはあったにしても、すくなくもこの島国に住むものがそうたやすく征服される民族でないことをヨーロッパ人に感知せしめ、同時に他藩のなし得ないことをなしたという自信を得た矢先で、松平|春嶽《しゅんがく》らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえされて、いまだ攘夷親征の機会でないとの勅諚《ちょくじょう》がそれにかわった。激しい焦躁《しょうそう》はひとまず政事の舞台から退いて、協調と忍耐とが入れかわりに進んだのである。
 しかし、この京都の形勢を全く凪《なぎ》と見ることは早計であった。九月にはいって、西からの使者が木曾街道を急いで来た。
「また早飛脚ですぞ。」
 清助も、栄吉もしかけた仕事を置いて、何事かと表に出て見た。早飛脚の荒い掛け声は宿場に住むものの耳についてしまった。


 とうとう、新しい時代の来るのを待ち切れないような第一の烽火《のろし》が大和地方に揚がった。これは千余人から成る天誅組《てんちゅうぐみ》の一揆《いっき》という形であらわれて来た。紀州《きしゅう》、津《つ》、郡山《こおりやま》、彦根《ひこね》の四藩の力でもこれをしずめるには半月以上もかかった。しかし闇《やみ》の空を貫く光のように高くひらめいて、やがて消えて行ったこの出来事は、名状しがたい暗示を多くの人の心に残した。従来、討幕を意味する運動が種々《いろいろ》行なわれないでもないが、それは多く示威の形であらわれたので、かくばかり公然と幕府に反旗を翻したものではなかったからである。遠く離れた馬籠峠の上あたりへこのうわさが伝わるまでには、美濃苗木藩《みのなえぎはん》の家中が大坂から早追《はやおい》で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛《よろずややすべえ》はまたそれを聞書《ききがき》にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこした。この一揆《いっき》は「禁裏百姓」と号し、前侍従中山忠光を大将に仰ぎ、日輪に雲を配した赤地の旗を押し立て、別に一番から百番までの旗を用意して、初めは千余人の人数であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬《ありま》の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和《やまと》河内《かわち》は大騒動で、やがて紀州へ向かうような話もあり、大坂へ向かうやも知れないとまで一時はうわさされたほどである。ともかくも、この討幕運動は失敗に終わった。天《てん》の川《かわ》というところでの大敗、藤本鉄石《ふじもとてっせき》の戦死、それにつづいて天誅組《てんちゅうぐみ》の残党が四方への離散となった。
 九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下《おやりした》で、年寄と用達《ようたし》と用人《ようにん》との三役も立ち合いのところで、山村氏から書付を渡され、それを書記から読み聞かせられたというものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人《ふたり》が福島から引き取って来た。
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