砲撃には浪人も加わっていた。半蔵はこの報知《しらせ》を自分で読み、隣家の伊之助のところへも持って行って読ませた。多くの人にとって、異国は未知数であった。時局は容易ならぬ形勢に推し移って行きそうに見えて来た。


 そこへ大坂御番衆の通行だ。五月も末のことであったが、半蔵は朝飯をすますとすぐ庄屋らしい平袴《ひらばかま》を着けて、問屋場の方へ行って見た。前の晩から泊まりがけで働きに来ている百人ばかりの伊那《いな》の助郷《すけごう》が二組に分かれ、一組は問屋九郎兵衛の家の前に、一組は半蔵が家の門の外に詰めかけていた。
「上清内路《かみせいないじ》村。下清内路《しもせいないじ》村。」
 と呼ぶ声が起こった。村の名を呼ばれた人足たちは問屋場の前に出て行った。そこには栄吉が助郷村々の人名簿をひろげて、それに照らし合わせては一人一人百姓の名を呼んでいた。
「お前は清内路か。ここには座光寺《ざこうじ》[#ルビの「ざこうじ」は底本では「さこうじ」]のものはいないかい。」
 と半蔵が尋ねると、
「旦那《だんな》、わたしは座光寺です。」
 と、そこに集まる百姓の中に答えるものがあった。
 清内路とは半蔵が同門の先輩原|信好《のぶよし》の住む地であり、座光寺とは平田|大人《うし》の遺書『古史伝』三十二巻の上木《じょうぼく》に主となって尽力している先輩北原稲雄の住む村である。お触れ当てに応じてこの宿場まで役を勤めに来る百姓のあることを伊那の先輩たちが知らないはずもなかった。それだけでも半蔵はこの助郷人足たちにある親しみを覚えた。
「みんな気の毒だが、きょうは須原《すはら》まで通しで勤めてもらうぜ。」
 半蔵の家の問屋場ではこの調子だ。いったいなら半蔵の家は月の下半期の非番に当たっていたが、特にこういう日には問屋場を開いて、九郎兵衛方を応援する必要があったからで。
 大坂御番衆の通行は三日も続いた。三日目あたりには、いかな宿場でも人馬の備えが尽きる。やむなく宿内から人別《にんべつ》によって狩り集め、女馬まで残らず狩り集めても、継立《つぎた》てに応じなければならない。各継ぎ場を合わせて助郷六百人を用意せよというような公儀御書院番の一行がそのあとに二日も続いた。助郷は出て来る日があり、来ない日がある。こうなると、人馬を雇い入れるためには夥《おびただ》しい金子《きんす》も要《い》った。そのたびに半蔵は六月近い強雨の来る中でも隣家の伏見屋へ走って行って言った。
「伊之助さん、君の方で二日ばかりの分を立て替えてください。四十五両ばかりの雇い賃を払わなけりゃならない。」
 半蔵も、伊之助も熱い汗を流しつづけた。公儀御書院番を送ったあとには、大坂|御番頭《ごばんがしら》の松平|兵部少輔《ひょうぶしょうゆう》と肥前平戸《ひぜんひらど》の藩主とを同日に迎えた。この宿場では、定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願のために蓬莱屋《ほうらいや》新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を整理する暇《いとま》もなかったくらいである。十|挺《ちょう》の鉄砲を行列の先に立て、四挺の剣付き鉄砲で前後を護《まも》られた大坂御番頭の一行が本陣の前で駕籠《かご》を休めて行くと聞いた時は、半蔵は大急ぎで会所から自分の部屋《へや》に帰った。麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》をお民に出させて着た。そして父の駅長時代と同じような御番頭の駕籠に近く挨拶《あいさつ》に行った。彼は父と同じように軽く袴《はかま》の股立《ももだち》を取り、駕籠のわきにひざまずいて、声をかけた。
「当宿本陣の半蔵でございます。お目通りを願います。」
 この挨拶を済ますころには、彼は一方に平戸藩主の一行を待ち受け、馬籠お泊まりという武家衆のために三十余人の客を万福寺にまで割り当てることを心配しなければならなかった。
 六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍|家茂《いえもち》はすでに、生麦償金授与の情実を聞き糺《ただ》して攘夷の功を奏すべきよしの御沙汰《ごさた》を拝し、お暇乞《いとまご》いの参内《さんだい》をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方《しゅくがた》では大根蒔《だいこんま》きがおそくなると言って一同目を回しているところへ、十頭ばかりの将軍の御召馬《おめしうま》が役人の付き添いで馬籠に着いた。この御召馬には一頭につき三人ずつの口取り別当が付いて来た。
「半蔵さん。」
 と言って伊之助が半蔵の袖《そで》を引いたのは、ばらばら雨の来る暮れ合いのころであった。この宿でも一両二分の金をねだられた上で、御召馬の通行を見送ったあとであった。
「およそやかましいと言っても、こんなやかましい御通行にぶつかったのは初めてです。」
 そう半蔵が言って見せると、伊之助は声を潜めて、
「半蔵さん、脇本陣《わきほんじん》の桝田屋《ますだや》へ来て休んで行った別当はなんと言ったと思います。御召馬とはなんだ。そういうことを言うんですよ。桝田屋の小左衛門さんもそれには震えてしまって、公方様《くぼうさま》の御召馬で悪ければ、そんならなんと申し上げればよいのですかと伺いを立てたそうです。その時の別当の言い草がいい――御召御馬《おめしおうま》と言え、それからこの御召御馬は焼酎《しょうちゅう》を一升飲むから、そう心得ろですとさ。」
 半蔵と伊之助とは互いに顔を見合わせた。
「半蔵さん、それだけで済むならまだいい。どうしてあの別当は機嫌《きげん》を悪くしていて、小左衛門さんの方で返事をぐずぐずしたら、いきなりその御召御馬を土足のまま桝田屋の床の間に引き揚げたそうですよ。えらい話じゃありませんか。実に、踏んだり蹴《け》ったりです。」
「京都の敵《かたき》をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と言って半蔵は嘆息した。


 京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十|棹《さお》も木曾街道を下って来るころは、この宿場では一層荷送りの困難におちいった。六月十日に着いた将軍の御召馬は、言わば西から続々殺到して来る関東方の先触《さきぶ》れに過ぎなかった。半蔵は栄吉と相談し、年寄役とも相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎《かたくらこじゅうろう》)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の長持と五|駄《だ》の馬荷とを宿方に預かった。
 隠退後の吉左衛門が沈黙に引き換え、伊之助の養父金兵衛は上の伏見屋の隠宅にばかり引き込んでいなかった。持って生まれた世話好きな性分《しょうぶん》から、金兵衛はこの混雑を見ていられないというふうで、肩をゆすりながら上の伏見屋から出て来た。
「どうも若い者は覚えが悪い。」と金兵衛は会所の前まで杖《つえ》をひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これまでにだっていくらもあることですよ。こういう時のお役所じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、その事なら笹屋《ささや》の庄助さんが出かけましたよ。あの人は作食米《さくじきまい》の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
 半蔵の挨拶《あいさつ》だ。百姓総代ともいうべき組頭《くみがしら》庄助と、年寄役伊之助とは、こういう時に半蔵が力と頼む人たちだったのだ。
 やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻《のじり》、三留野《みどの》の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混《こ》み合いで、伊那の助郷もそうそうは応援に出て来ない。継立《つぎた》ての行き届かないことは馬籠ばかりではなかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵としてはよい方法も見当たらなかったくらいだ。ところが、この峠の上の小駅は家ごとに御用宿で、役人を休息させる場処もなかった。その一夜の泊まりは金兵衛の隠宅で引き受けた。
「お師匠さま。」
 と言って勝重《かつしげ》が半蔵のところへ飛んで来たのは、将軍家用の長持を送ってから六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留《とうりゅう》していて、在郷の村々へ手分けをしては催促に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留していた時だ。ようやくその中の三分の一だけ継立てができたと知って、半蔵も息をついていた時だ。
「勝重《かつしげ》さんは復習でもしていますか。これじゃ本も読めないね。しばらくわたしも見てあげられなかった。こんな日も君、そう長くは続きますまい。」
「いえ、そこどこじゃありません。なんにもわたしはお手伝いができずにいるんです。そう言えば、お師匠さま――わたしは今、問屋場の前でおもしろいものを見て来ましたよ。いくら荷物を出せと言われても、出せない荷物は出せません、そう言って栄吉さんが旅の御衆に断わったと思ってごらんなさい。その人が袖《そで》を出して、しきりに何か催促するじゃありませんか。栄吉さんもしかたなしに、天保銭《てんぽうせん》を一枚その袂《たもと》の中に入れてやりましたよ。」
 勝重はおとなの醜い世界をのぞいて見たというふうに、自分の方ですこし顔をあからめて、それからさらに言葉をついで見せた。
「どうでしょう、その人は栄吉さんだけじゃ済ましませんよ。九郎兵衛さんのところへも押し掛けて行きました。あそこでもしかたがないから、また天保銭を一枚その袂の中へ入れてやりました。『よし、よし、これで勘弁してやる、』――そうあの旅の御衆が大威張《おおいば》りで言うじゃありませんか。これにはわたしも驚きましたよ。」


 当時の街道に脅迫と強請の行なわれて来たことについては実にいろいろな話がある。「実懇《じっこん》」という言葉なぞもそこから生まれてきた。この実懇になろうとは、心やすくなろうとの意味であって、その言葉を武士の客からかけられた旅館の亭主《ていしゅ》は、必ず御肴代《おさかなだい》の青銅とか御祝儀《ごしゅうぎ》の献上金とかをねだられるのが常であった。町人百姓はまだしも、街道の人足ですら駕籠《かご》をかついで行く途中で武士風の客から「実懇になろうか」とでも言葉をかけられた時は、必ず一|分《ぶ》とか、一分二百とかの金をねだられることを覚悟せねばならなかった。貧しい武家衆や公卿《くげ》衆の質《たち》の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、それによって二、三年は寝食いができると言われるような世の中になって来た。どうして問屋場のものを脅迫する武家衆が天保銭一枚ずつの話なぞは、この街道ではめずらしいことではなくなった。
 この脅迫と強請とがある。一方に賄賂《わいろ》の公然と行なわれていたのにも不思議はなかった。従来問屋場を通過する荷物の貫目にもお定めがあって、本馬《ほんま》一|駄《だ》二十貫目、軽尻《からじり》五貫目、駄荷《だに》四十貫目、人足一人持ち五貫目と規定され、ただし銭差《ぜにさし》、合羽《かっぱ》、提灯《ちょうちん》、笠袋《かさぶくろ》、下駄袋《げたぶくろ》の類《たぐい》は本馬一駄乗りにかぎり貫目外の小付《こづけ》とすることを許されていた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分《おいわけ》、洗馬《せば》の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府の役人がそこに出張することもあり、問屋場のものの立ち合って改めたこともあった。そこは賄賂の力である程度までの出世もでき、御家人《ごけにん》の株を譲り受けることもできたほどの時だ。規定の貫目を越えた諸藩の荷物でもずんずん御貫目改め所を通過して、この馬籠の問屋場にまで送られて来た。
 将軍家|御召替《おめしか》えの乗り物、輿《こし》、それに多数の鉄砲、長持を最後にして、連日の大
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