は一代|苗字《みょうじ》帯刀、一度は永代苗字帯刀、一度は藩主に謁見《えっけん》の資格を許すとの書付を贈られていたくらいだ。そんな縁故から、吉左衛門は隠居の身ながら麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》を着用し、旅にある藩主を自宅に迎えたのである。半蔵が本陣の奥の部屋《へや》にこの父を見つけた時は、吉左衛門はまだ麻の袴《はかま》を着けたままでいた。
「やれ、やれ、戦争も始まらずに済むか。」
父は半蔵から徒士目付《かちめつけ》の残した話の様子を聞いたあとで言った。
「しかし、お父《とっ》さん、これが京都へ知れたらどういうことになりましょう。なぜ、そんな償金を払ったかなんて、そういう声が必ず起こって来ましょうよ。」
三
「あなた、羽織の襟《えり》が折れていませんよ。こんな日には、髪結いでも呼んで、さっぱりとなすったら。」
「まあいい。」
「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人|連《づ》れで泊まっていますから、本陣の旦那《だんな》にもお出かけくださいッて、そう言って行きましたよ。旅の芸人のようじゃない、まあきいてごらんなさればわかる、今夜は太平記《たいへいき》ですなんて、そんなことをしきりと言っていましたよ。」
「まあ、おれはいい。」
「きょうはどうなすったか。」
「どうも心が動いてしかたがない。囲炉裏《いろり》ばたへ来て、今すわって見たところだ。」
半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
尾州藩主を見送ってから九日も降り続いた雨がまだあがらなかった。藩主が通行前に植え付けの済んだ村の青田の方では蛙《かわず》の声を聞くころだ。天保《てんぽう》二年の五月に生まれて、生みの母の覚えもない半蔵には、ことさら五月雨《さみだれ》のふるころの季節の感じが深い。
「お民、おれのお母《っか》さんが亡《な》くなってから、三十三年になるよ。」
と彼は妻に言って見せた。さびしい雨の音をきいていると、過去の青年時代を繞《めぐ》りに繞ったような名のつけようのない憂鬱《ゆううつ》がまた彼に帰って来る。
お民はすこし青ざめている夫の顔をながめながら言った。
「あなたはため息ばかりついてるじゃありませんか。」
「どうしておれはこういう家に生まれて来たかと考えるからさ。」
お民が奥の部屋《へや》の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗《やり》を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩《うまや》がなければならない。消防用の水桶《みずおけ》、夜間警備の高張《たかはり》の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔《むかし》の武人が行軍の習慣の保存されたもので、それらの一行がこの宿場に到着するごとに、本陣の玄関のところには必ず陣中のような幕が張り回される。大名以外には、公卿《くげ》、公役、それに武士のみがここへ来て宿泊し、休息することを許されているのだ。こんな人たちのために屋敷を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。前もって宿割《しゅくわり》の役人を迎え、御宿札《おやどふだ》というもののほかに関所を通過する送り荷の御鑑札を渡され、畳表を新しくするとか障子を張り替えるとか、時には壁を塗り替えるとかして、権威ある人々を待たねばならない。屏風《びょうぶ》何|双《そう》、手燭《てしょく》何|挺《ちょう》、燭台何挺、火鉢《ひばち》何個、煙草盆《たばこぼん》何個、草履《ぞうり》何足、幕何張、それに供の衆何十人前の膳飯《ぜんぱん》の用意をも忘れてはならない。どうして、旅人を親切にもてなす心なしに、これが勤まる家業ではないのだ。
そんなら、問屋は何をしなければならないところか。半蔵の家に付属する問屋場なぞは、明らかに本陣と同じ意匠のもとにあるもので、主として武家に必要な米穀、食糧、武器、その他の輸送のために開始された場処であることがわかる。これはまた時代が変遷して来ても、街道を通過する公用の荷物、諸藩の送り荷などを継ぎ送るだけにも、かなりの注意を払わねばならない。諸大名諸公役が通行のおりの荷物の継立《つぎた》ては言うまでもなく、宿人馬、助郷《すけごう》人馬、何宿の戻《もど》り馬、在馬《ざいうま》の稼《かせ》ぎ馬などの数から、商人荷物の馬の数まで、日々の問屋場帳簿に記入しなければならない。のみならず、毎年あるいは二、三年ごとに、人馬徴発の総高を計算して、それを人馬立辻《じんばたてつじ》ととなえて、道中奉行《どうちゅうぶぎょう》の検閲を経なければならない。諸街道にある他の問屋のことは知らず、同じ馬籠の九太夫の家もさておき、半蔵の家のように父祖伝来の勤めとしてこの仕事に携わるとなると、これがまた公共の心なしに勤まる家業でもないのだ。
見て来ると、地方自治の一単位として村方の世話をする役を除いたら、それ以外の彼の勤めというものは、主として武家の奉公である。一庄屋としてこの政治に安んじられないものがあればこそ、民間の隠れたところにあっても、せめて勤王の味方に立とうと志している彼だ。周囲を見回すごとに、他の本陣問屋に伍《ご》して行くことすら彼には心苦しく思われて来た。
奥の部屋《へや》の方からは、漢籍でも読むらしい勝重《かつしげ》の声が聞こえて来ていた。ときどき子供らの笑い声も起こった。
「どうもよく降ります。」
会所の小使いが雨傘《あまがさ》をつぼめてはいって来た。
その声に半蔵は沈思を破られて、小使いの用事を聞きに立って行った。近く大坂御番衆の通行があるので、この宿場でも人馬の備えを心がけて置く必要があった。宿役人一同の寄り合いのことで小使いはその打ち合わせに来たのだ。
街道には、毛付《けづ》け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒《きそごま》をひき連れた博労《ばくろう》なぞが笠《かさ》と合羽《かっぱ》で、本陣の門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台《せんだい》の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても問屋としても絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎《しょうちゅう》を半蔵の家から差し出した旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》は近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦《なまむぎ》償金授与の事情を朝廷に弁疏《べんそ》するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍|還御《かんぎょ》の日ももはやそんなに遠くないことを感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまであらわれて来ることをも想像せずにはいられなかった。
その時になって見ると、重大な任務を帯びて西へと上って行った尾州藩主のその後の消息は明らかでない。あの一行が中津川泊まりで馬籠を通過して行ってから、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になると飛脚の持って来る話もごくあいまいで、今度の上京は見合わせになるかもしれないような消息しか伝わって来なかった。生麦償金はすでに払われたというにもかかわらず、宣戦の布告にもひとしいその月十日の攘夷期限が撤回されたわけでも延期されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような人がある。漠然《ばくぜん》とした名古屋からの便《たよ》りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役伊之助をも不安にした。
四
もはや、西の下《しも》の関《せき》の方では、攘夷を意味するアメリカ商船の砲撃が長州藩によって開始されたとのうわさも伝わって[#「伝わって」は底本では「伝わつて」]来るようになった。
[#ここから1字下げ]
小倉藩《こくらはん》より御届け
口上覚《こうじょうおぼ》え
「当月十日、異国船一|艘《そう》、上筋《かみすじ》より乗り下し、豊前国《ぶぜんのくに》田野浦|部崎《へさき》の方に寄り沖合いへ碇泊《ていはく》いたし候《そうろう》。こなたより船差し出《いだ》し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気|悪《あ》しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け候間、番船付け置き候。しかるところ、夜に入り四つ時ごろ、長州様軍艦乗り下り、右碇泊いたし候アメリカ船へ向け大砲二、三発、ならびにかなたの陸地よりも四、五発ほど打ち出し候様子のところ、異船よりも二、三発ほど発砲いたし、ほどなく出船、上筋へ向かい飄《ただよ》い行き候。もっとも夜中《やちゅう》の儀につき、しかと様子相わからず候段、在所表《ざいしょおもて》より申し越し候間、この段御届け申し上げ候。以上。」
[#地から7字上げ]小笠原左京大夫内
[#地から2字上げ]関重郎兵衛
[#ここで字下げ終わり]
これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに送って来たのであった。別に、次ぎのような来状の写しも同封してある。
[#ここから1字下げ]
五月十一日付
下の関より来状の写し
「昨十日異国船一|艘《そう》、ここもと田野浦沖へ碇泊《ていはく》。にわかに大騒動。市中荷物を片づけ、年寄り、子供、遊女ども、在郷《ざいごう》へ逃げ行き、若者は御役申し付けられ、浪人武士数十人異船へ乗り込みいよいよ打ち払いの由に相成り候《そうろう》。同夜、子《ね》の刻《こく》ごろより、石火矢《いしびや》数百|挺《ちょう》打ち放し候ところ、異船よりも数十挺打ち放し候えども地方《じかた》へは届き申さず。もっとも、右異船は下り船に御座候ところ、当瀬戸の通路つかまつり得ず、またまた跡へ戻《もど》り、登り船つかまつり候。当方武士数十人、鎧兜《よろいかぶと》、抜き身の鎗《やり》、陣羽織《じんばおり》を着し、騎馬数百人も出、市中は残らず軒前《のきさき》に燈火《あかり》をともし、まことにまことに大騒動にこれあり候。しかるところ、長州様蒸気船二艘まいり、石火矢《いしびや》打ち掛け、逃げ行く異船を追いかけ二発の玉は当たり候由に御座候。その後、異船いずれへ逃げ行き候や行くえ相わかり申さず。ようやく今朝一同引き取りに相成り鎮《しず》まり申し候。しかし他の異国船五、六艘も登り候うわさもこれあり、今後瀬戸通路つかまつり候えば皆々打ち払いに相成る様子、委細は後便にて申し上ぐべく候。以上。」
[#ここで字下げ終わり]
とある。
関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する。下の関よりとした来状の写しにもあるように、この異国船の
前へ
次へ
全44ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング