し、継立《つぎた》てを応援する定員の公役を設けることであって、この方法によると常備人馬でも応じきれない時に定助郷の応援を求め、定助郷が出てもまだ足りないような大通行の場合にかぎり加助郷《かすけごう》の応援を求めるのであるが、これまで木曾地方の街道筋にはその組織も充分にそなわっていなかった。それには木曾十一宿のうち、上《かみ》四宿、中《なか》三宿、下《しも》四宿から都合四、五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどうしても助郷の組織を改良すべき時機であることを陳述し、それには定助郷を勤むるものに限り高掛《たかかか》り物《もの》(金納、米納、その他労役をもってする一種の戸数割)の免除を願い、そして課役に応ずる百姓の立場をはっきりさせ、同時に街道の混乱を防ぎ止めねばならぬ、そのことに十一宿の意見が一致したのであった。もしこの定助郷設置の嘆願が道中奉行に容《い》れられなかったら、お定めの二十五人、二十五|疋《ひき》以外には継立《つぎた》てに応じまい、その余は翌日を待って継ぎ立てることにしたいとの申し合わせもしてあった。馬籠の宿では年寄役|蓬莱屋《ほうらいや》の新七がその総代の一人に選ばれた。吉左衛門、金兵衛はすでに隠居し、九太夫も退き、伏見屋では伊之助、問屋では九郎兵衛、その他の宿役人を数えて見ても年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》は父儀助に代わり、同役梅屋五助は父|与次衛門《よじえもん》に代わって、もはや古株《ふるかぶ》で現役に踏みとどまっているものは蓬莱屋新七一人しか残っていなかったのである。新七は江戸表をさして出発するばかりに、そのしたくをととのえて、それから半蔵のところへ庄屋としての調印を求めに来た。
 五月の七日を迎えるころには、馬籠の会所に集まる宿役人らはさしあたりこの定助郷の設けのない不自由さを互いに語り合った。なぜかなら、にわかな触《ふ》れ書《しょ》の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
「なんのための御上京か。」
 と半蔵は考えて、来たる十三日のころにはこの宿場に迎えねばならない大きな通行の意味を切迫した時局に結びつけて見た。その月の八日はかねて幕府が問題の生麦《なまむぎ》事件でイギリス側に確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいかに見えて来た。
「半蔵さん、村方へはどうしましょう。」
 と従兄弟《いとこ》の栄吉が問屋場から半蔵を探《さが》しに来た。
「尾張《おわり》領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻《のじり》詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立《つぎた》てにはそう困りますまいが。」とまた栄吉が言い添える。
「まあ、村じゅう総がかりでやるんだね。」と半蔵は答えた。
「御通行前に、田圃《たんぼ》の仕事を片づけろッて、百姓一同に言い渡しましょうか。」
「そうしてください。」
 そこへ清助も来て一緒になった。清助はこの宿場に木曾の大領主を迎える日取りを数えて見て、
「十三日と言えば、もうあと六日しかありませんぞ。」
 村では、飼蚕《かいこ》の取り込みの中で菖蒲《しょうぶ》の節句を迎え、一年に一度の粽《ちまき》なぞを祝ったばかりのころであった。やがて組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》をはじめ、五人組の重立ったものがそれぞれ手分けをして、来たる十三日のことを触れるために近い谷の方へも、山間《やまあい》に部落のある方へも飛んで行った。ちょうど田植えも始まっているころだ。大領主の通行と聞いては、男も女も田圃《たんぼ》に出て、いずれも植え付けを急ごうとした。


 木曾地方の人民が待ち受けている尾州藩の当主は名を茂徳《もちのり》という。六十一万九千五百石を領するこの大名は御隠居(慶勝《よしかつ》)の世嗣《よつぎ》にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の大森林もまたこの人の保護の下にある。
 当時、将軍は上洛《じょうらく》中で、後見職|一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》をはじめ、会津藩主松平|容保《かたもり》なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに、もし満足な答えが得られないなら、艦隊の威力によっても目的を達するに必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤《みとよしあつ》と共にその守備に当たっていたのだ。
 しかし、尾州藩の位置を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前《えちぜん》も手を引き、薩摩《さつま》も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜《さくそう》していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙《あいたいじ》する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿《くげ》たちを異《こと》にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥《なるせまさみつ》のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢《いせ》、熱田《あつた》の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦《ぼうぎょ》に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲《たみやじょうん》以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳《もちのり》のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典《じんぎほうてん》』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱《いだ》いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦《いくさ》を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
 外人殺傷の代償も大きかった。とうとう、尾州藩主は老中格の小笠原図書頭《おがさわらずしょのかみ》が意見をいれ、同じ留守役の水戸|慶篤《よしあつ》とも謀《はか》って、財政困難な幕府としては血の出るような十万ポンドの償金をイギリス政府に払ってしまった。五月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行が木曾路の東ざかい桜沢に達すると、そこはもう藩主の領地の入り口である。時節がら、厳重な警戒で、護衛の武士、足軽《あしがる》、仲間《ちゅうげん》から小道具なぞの供の衆まで入れると二千人からの同勢がその領地を通って、かねて触れ書の回してある十三日には馬籠の宿はずれに着いた。
 おりよく雨のあがった日であった。駅長としての半蔵は、父の時代と同じように、伊之助、九郎兵衛、小左衛門、五助などの宿役人を従え、いずれも定紋《じょうもん》付きの麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》で、この一行を出迎えた。道路の入り口にはすでに盛り砂が用意され、竹籠《たけかご》に厚紙を張った消防用の水桶《みずおけ》は本陣の門前に据《す》え置かれ、玄関のところには二張《ふたはり》の幕も張り回された。坂になった馬籠の町は金の葵《あおい》の紋のついた挾箱《はさみばこ》、長い柄《え》の日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具で時ならぬ光景を呈した。鉾《ほこ》の先を飾る大鳥毛の黒、三間鎗《さんげんやり》の大刀打《たちうち》に光る金なぞはことに大藩の威厳を見せ、黒の絹羽織《きぬばおり》を着た小人衆《こびとしゅう》はその間を往《い》ったり来たりした。普通御通行のお定めと言えば、二十万石以上の藩主は馬十五|疋《ひき》ないし二十疋、人足百二、三十人、仲間二百五十人ないし三百人とされていたが、尾張領分の村々から藩主を迎えに来た人足だけでも二千人からの人数がこの宿場にあふれた。
 東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠《とりいとうげ》あたりをその実際の中央にして、それから十五里あまり西寄りのところに馬籠の宿があるが、大体に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻《しおじり》、和田、碓氷《うすい》の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃《みの》方面の平野は馬籠の西の宿はずれから目の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便《たよ》りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の中の用人らがこの峠の上の位置まで来て、しきりに西の方の様子を聞きたがるのに不思議はなかった。
 その日の藩主は中津川泊まりで、午後の八つ時ごろにはお小休みだけで馬籠を通過した。
「下に。下に。」
 西へと動いて行く杖払《つえはら》いの声だ。その声は、石屋の坂あたりから荒町《あらまち》の方へと高く響けて行った。路傍《みちばた》に群れ集まる物見高い男や女はいずれも大領主を見送ろうとして、土の上にひざまずいていた。
 半蔵も目の回るようないそがしい時を送った。西の宿はずれに藩主の一行を見送って置いて、群衆の間を通りぬけながら、また自分の家へと引き返して来た。その時、御跡改《おあとあらた》めの徒士目付《かちめつけ》の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
 徒士目付は藩主がお小休みの礼を述べ、不時の人馬賃銭を払い、何も不都合の筋はなかったかなぞと尋ねた上で立ち去った。半蔵は跡片づけにごたごたする家のなかのさまをながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主|入洛《じゅらく》の報知《しらせ》が京都へ伝わる日のことを想《おも》って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに思えた。まして熾《さか》んな敵愾心《てきがいしん》で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に疑問であった。
 やかましい問題の償金はすでにイギリスへ払われたのだ。そのことを告げ知らせるために、半蔵はだれよりも先に父の吉左衛門を探《さが》した。こういう時のきまりで、出入りの百姓は男も女も手伝いとして本陣に集まって来ている。半蔵はその間を分けて、お民を見つけるときき、清助をつかまえるときいた。
「お父《とっ》さんは?」
 馬籠の本陣親子が尾州家との縁故も深い。ことに吉左衛門はその庄屋時代に、財政困難な尾州藩の仕法立てに多年尽力したかどで、三回にもわたって、一度
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