成《な》り金《きん》と言ってよかろうね。」
「金兵衛さんだから、成り金ですか。大旦那の洒落《しゃれ》が出ましたね。」
 聞いているおまんも笑い出した。そして二人の話を引き取って、「今ごろは半蔵も、どこかでくしゃみばかりしていましょうよ。将棋のことはわたしにはわかりませんが、半蔵にしても、お民にしても、あの夫婦はまだ若い。若い者のよいところは、先の見えないということだ、この節わたしはつくづくそう思って来ましたよ。」
「それだけおまんも年を取った証拠だ。」と吉左衛門が笑う。
「そうかもしれませんね。」と言ったあとで、おまんは調子を変えて、「あなた、一番肝心なことをあと回しにして、まだ清助さんに話さないじゃありませんか。ほら、あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんにもよく気をつけていてもらうようにッて、さっきからそう言って心配しておいでじゃありませんか。」
「それさ。」と吉左衛門も言った。「おれも今、それを言い出そうと思っていたところさ。」
 清助はうなずいた。

       二

 半蔵は勝重《かつしげ》を連れて、留守中のことを案じながら王滝《おうたき》から急いで来た。御嶽山麓《おんたけさんろく》の禰宜《ねぎ》の家から彼がもらい受けて来た里宮|参籠《さんろう》記念のお札、それから神饌《しんせん》の白米なぞは父吉左衛門をよろこばせた。
 留守中に届いた友人香蔵からの手紙が、寛《くつろ》ぎの間《ま》の机の上に半蔵を待っていた。それこそ彼が心にかかっていたもので、何よりもまず封を切って読もうとした京都|便《だよ》りだ。はたして彼が想像したように、洛中《らくちゅう》の風物の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都|麩屋町《ふやまち》の染め物屋|伊勢久《いせきゅう》とは、先輩|暮田正香《くれたまさか》の口からも出た平田門人の一人《ひとり》で、義気のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職《じんぎしょく》の白川資訓卿《しらかわすけくにきょう》とは、これまで多くの志士が縉紳《しんしん》への遊説《ゆうぜい》の縁故をなした人で、その関係から長州藩、肥後藩、島原藩なぞの少壮な志士たちとも友だちが往来を始めることを知った。そればかりではない、あの足利《あしかが》将軍らの木像の首を三条河原《さんじょうがわら》に晒《さら》したという示威事件に関係して縛に就《つ》いた先輩|師岡正胤《もろおかまさたね》をはじめ、その他の平田同門の人たちはわずかに厳刑をまぬかれたというにとどまり、いずれも六年の幽囚を申し渡され、正香その人はすでに上田藩の方へお預けの身となっていることを知った。ことにその捕縛の当時正胤の二条|衣《ころも》の棚《たな》の家で、抵抗と格闘のあまりその場に斬殺《ざんさつ》せられた二人の犠牲者を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを知った。
 本陣の店座敷にはだれも人がいなかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。


「あなた、景蔵さんからお手紙ですよ。」
 お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
「お民、この手紙はだれが持って来たい。」
「中津川の万屋《よろずや》から届けて来たんですよ。安兵衛《やすべえ》さんが京都の方へ商法《あきない》の用で行った時に、これを預かって来たそうですよ。」
 その時お民は、御嶽参籠後の半蔵がそれほど疲れたらしい様子もないのに驚いたというふうで、夫の顔をながめた。「本陣鼻」と言われるほど大きく肉厚《にくあつ》な鼻の先へしわを寄せて笑うところから、静かな口もとまで、だんだん父親の吉左衛門に似て来るような夫の容貌《ようぼう》をながめて置いて、何やらいそがしげにそのそばを離れて行くのも彼女だ。
「お師匠さま、おくたぶれでしょう。」
 と言って、勝重もそこへ半蔵の顔を見に来た。
「わたしはそれほどでもない。君は。」
「平気ですよ。往《ゆ》きを思うと、帰りは実に楽でした。わたしもこれから田楽《でんがく》を焼くお手伝いです。お師匠さまに食べさせたいッて、今|囲炉裏《いろり》ばたでみんなが大騒ぎしているところです。」
「もう山椒《さんしょ》の芽が摘めるかねえ。王滝じゃまだ梅だったがねえ。」
 勝重もそばを離れて行った。半蔵はお民の持って来た手紙を開いて見た。
 もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人の景蔵は、半蔵から見れば兄のような人だった。割合に年齢《とし》の近い香蔵に比べると、この人から受け取る手紙は文句からして落ち着いている。その便《たよ》りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸《いわしみずぎょうこう》の日のことがその中に報じてある。
 景蔵の手紙はなかなかこまかい。それによると、今度の行幸については種々《さまざま》な風説が起こったとある。国事寄人《こくじよりうど》として活動していた侍従中山|忠光《ただみつ》は官位を朝廷に返上し、長州に脱走して毛利真斎《もうりしんさい》と称し、志士を糾合《きゅうごう》して鳳輦《ほうれん》を途中に奪い奉る計画があるというような、そんな風説も伝わったとある。その流言に対して会津《あいづ》方からでも出たものか、八幡《はちまん》の行幸に不吉な事のあるやも測りがたいとは実に苦々《にがにが》しいことだが、万一それが事実であったら、武士はもちろん、町人百姓までこの行幸のために尽力守衛せよというような張り紙を三条大橋の擬宝珠《ぎぼし》に張りつけたものがあって、役所の門前で早速《さっそく》その張り紙は焼き捨てられたという。石清水《いわしみず》は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝《みかど》にも当日は御気分が進まれなかったが、周囲にある公卿《くげ》たちをはじめ、長州侯らの懇望に励まされ、かつはこの国の前途に深く心を悩まされるところから、御祈願のため洛外《らくがい》に鳳輦《ほうれん》を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保《まつだいらかたもり》も忌服《きぶく》とあって、名代《みょうだい》の横山|常徳《つねのり》が当日の供奉《ぐぶ》警衛に当たった。景蔵に言わせると、当時、鱗形屋《うろこがたや》の定飛脚《じょうびきゃく》から出たものとして諸方に伝わった聞書《ききがき》なるものは必ずしも当日の真相を伝えてはない。その聞書には、
「四月十一日。石清水行幸の節、将軍家御病気。一橋《ひとつばし》様御名代のところ、攘夷《じょうい》の節刀を賜わる段にてお遁《に》げ。」
 とある。この「お遁《に》げ」はいささか誇張された報道らしい。景蔵はやはり、一橋公の急病か何かのためと解したいと言ってある。いずれにしても、当日は必ず何か起こる。その出来事を待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて淀川《よどがわ》の滔々《とうとう》と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思《おぼ》し召され、外夷《がいい》親征なぞの御艱難《ごかんなん》はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体《りゅうたい》を危うくされ給《たも》うまいと慮《おもんぱか》らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿《ししんでん》の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認《したた》めてある。
 聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田《いいだ》の在から京都に出ている松尾|多勢子《たせこ》(平田|鉄胤《かねたね》門人)のような近い親戚《しんせき》の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想《おも》い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰《はしづ》めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
[#地から7字上げ]徳川家茂
[#ここから1字下げ]
「右は、先ごろ上洛《じょうらく》後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候《そうろう》ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終|虚喝《きょかつ》を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷《がいい》拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞《えいぶん》を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出《い》づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病《けびょう》を構え、一橋中納言《ひとつばしちゅうなごん》においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守《いたくらすおうのかみ》、岡部駿河守《おかべするがのかみ》らをはじめ奸吏《かんり》ども数多くこれありて、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》らの遺志をつぎ、賄賂《わいろ》をもって種々|奸謀《かんぼう》を行ない、実《じつ》もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮《ちゅうりく》を加うべきはずに候えども、大樹《たいじゅ》(家茂)においてはいまだ若年《じゃくねん》の儀にて、諸事奸吏どもの腹中より出《い》で候おもむき相聞こえ、格別寛大の沙汰《さた》をもって、しばらく宥恕《ゆうじょ》いたし候につき、速《すみや》かに姦徒《かんと》の罪状を糺明《きゅうめい》し、厳刑を加うべし。もし遅緩に及び候わば旬日を出《い》でずして、ことごとく天誅《てんちゅう》を加うべきものなり。」
  亥《い》四月十七日[#地から2字上げ]天下義士
[#ここで字下げ終わり]
 この驚くべき張り紙――おそらく決死の覚悟をもって書かれたようなこの張り紙の発見されたことは、将軍家をして攘夷期限の公布を決意せしめるほどの力があったということを景蔵は書いてよこした。イギリスとの戦争は避けられないかもしれないとある。自分はもとより対外硬の意見で、時局がここまで切迫して来ては攘夷の実行もやむを得まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と称する人たちの多いにはうんざりする、ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
 日ごろ、へりくだった心の持ち主で、付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流の渦《うず》の中にあるとは言っても、そこには幾多の不純なもののあることが想像された。その不純を容《い》れながらも、尊王の旗を高くかかげて進んで行こうとしているらしい友だちの姿が半蔵の目に浮かぶ。
「どうだ、青山君。今の時は、一人《ひとり》でも多く勤王の味方を求めている。君も家を離れて来る気はないか。」
 この友だちの声を半蔵は耳の底に聞きつける思いをした。


 京都から出た定飛脚《じょうびきゃく》の聞書《ききがき》として、来たる五月の十日を期する攘夷の布告がいよいよ家茂の名で公《おおやけ》にされたことが、この街道筋まで伝えられたのは、それから間もなくであった。
 こういう中で、いろいろな用事が半蔵の身辺に集まって来た。参覲交代制度の変革に伴い定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願に関する件がその一つであった。これは宿々《しゅくじゅく》二十五人、二十五|疋《ひき》の常備御伝馬以外に、人馬を補充
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