。
かねての意志を実現すべき大政奉還の機会はこんなふうにして慶喜のところへやって来た。徳川の代もこれまでだと覚悟する将軍は、討幕の密議がそれほどまで熟しているとは知らなかったが、禍機はすでにその極度に達していることを悟り、敵としての自分の前に進んで来るものよりも、もっと大きなものの前に頭を下げようとした。十月の十二日は慶喜が政権奉還のことを告げるために、大小|目付《めつけ》以下の諸有司を二条城に召した日である。一同の驚きはなかった。今日となってはもはやこのほかに見込みがない、神祖(東照宮のこと)以来の鴻業《こうぎょう》を一朝に廃滅するは先霊に対しても恐れ入る次第であるが、畢竟《ひっきょう》天下を治め宸襟《しんきん》を安んじ奉るこそ神祖の盛業を継述するものである、と、慶喜に言われても、多数の有司は異議をいだいてなかなか容易に納まらない。この際、断然政権を朝廷に返上し、政令を一途にして、徳川家のあらんかぎり力の及ぶべきだけは天下の諸侯と共に朝廷を輔佐《ほさ》し奉り、日本全国の力をあわせて外国の侮りをふせぐことともならば、皇国今後の目的も定まるであろう。それまで慶喜に言われても、諸有司の間にはまだかれこれとのつぶやきが絶えない。その時の慶喜の言葉に、各《おのおの》においても本来自分が京都にあるのは何のためかと思って見るがいい。こう穏やかでない時勢であるから輦下《れんか》の騒擾《そうじょう》をしずめ叡慮《えいりょ》を安んじ奉らんがためであることはいずれも承知するところであろう。しかるに非徳の自分が京都にあるためその禍根を醸《かも》したとは思わずに、かえって干戈《かんか》を動かし、自分を敵視するものを討《う》つとあっては、ただただそれは宸衷《しんちゅう》を驚かし奉り万民を困苦せしむる罪を重ぬるのみであって、一つとして義理に当たるものはなく、忠貞の素志もそのためにむなしくなろう。この上は、ただ自身に反省して、己《おのれ》を責め、私を去り、従前の非政を改め、至忠至公の誠心をもって天下と共に朝廷を輔翼し奉るのほかはない。その事は神祖の神慮にも適《かな》うであろう。神祖は天下の安からんがために政権を執ったもので、天下の政権を私せられたのではない。自分もまた、天下の安からんがために徳川氏の政権を朝廷に還《かえ》し奉るものであるから、取捨は異なるとも、朝廷に報ゆるの意はすなわち一つである。あるいは、政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないか。幕府の威令は行なわれない。諸侯を召しても事を左右に託して来たらない。これは幕府に対してばかりでなく、朝命ですら同様の状態にある。この際、朝威を輔《たす》け、諸侯と共に王命を奉戴《ほうたい》して、外国の防侮に力を尽くさなかったら、この日本のことはいかんともすることができないかもしれないと。
慶喜の意は決した。十月十三日には政権返上のことを列藩に通じ、十四日にはその事を御奏聞に達した。そしてこの大政奉還と、引き続く将軍職の拝辞とによって、まことの公武一和の精神がいかなるものであるかを明らかにした。あだかも高く飛ぶことを知る鳥は、風を迎え翼を収めることを知っていて、自然と自分を持って行ってくれる風の力に身を任せようとするかのように。
六
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ええじゃないか、ええじゃないか
挽《ひ》いておくれよ一番挽きを
二番挽きにはわしが挽く
ええじゃないか、ええじゃないか
ええじゃないか、ええじゃないか
臼《うす》の軽さよ相手のよさよ
相手かわるなあすの夜も
ええじゃないか、ええじゃないか
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馬籠《まごめ》の宿場では、毎日のように謡《うた》の囃子《はやし》に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。
十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るとともに、種々《さまざま》な流言のしきりに伝わって来るころだ。その中で不思議なお札が諸方に降り始めたとの評判が立った。同時に、どこから起こったとも言えないような「ええじゃないか」の句に、いろいろな唄《うた》の文句や滑稽《こっけい》な言葉などをはさんで囃《はや》し立てることが流行《はや》って来た。
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ええじゃないか、ええじゃないか
こよい摺《す》る臼《す》はもう知れたもの
婆々《ばば》さ夜食の鍋《なべ》かけろ
ええじゃないか、ええじゃないか
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だれもがこんな謡《うた》の囃子《はやし》を小ばかにし、またよろこび迎えた。その調子は卑猥《ひわい》ですらあるけれども、陽気で滑稽なところに親しみを覚えさせる。何かしら行儀正しいものを打ち壊《こわ》すような野蛮に響く力がある。
この「ええじゃないか」が村の年寄りや女子供までを浮き浮きとさせた。そこへお札だ。荒町《あらまち》にある氏神《うじがみ》の境内へ下った諏訪《すわ》本社のお札を降り始めとして、問屋の裏小屋の屋根へも伊勢《いせ》太神宮のお札がお下《さが》りになったとか、桝田屋《ますだや》の坪庭へも同様であると言われると、それ祝えということになって、村の若い衆なぞの中には襦袢《じゅばん》一枚で踊り狂いながら祝いに行くという騒ぎだ。お札の降った家では幸福があるとして、餅《もち》をつくやら、四斗樽《しとだる》をあけるやら、それを一同に振る舞って非常な縁起《えんぎ》を祝った。
だれもがまた、こんな不思議を疑い、かつ信じた。実際、明るい青空からお札がちらちら降って来たのを目撃したと言うものがあり、何かこれは伊勢太神宮のお告げだと言うものがあり、豊年の瑞兆《ずいちょう》だと言って見るものもある。このにぎやかな「えいじゃないか」の騒動は木曾地方にのみ限らなかった。京大坂の方面から街道を下って来る旅人の話も戸《こ》ごとに神棚《かみだな》をこしらえ、拾ったお札を祭り、中には笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なく花やかな衣裳《いしょう》を着けながら市中を踊り回るという賑々《にぎにぎ》しさで持ち切った。
不思議なお札と、熱狂する「ええじゃないか」と。まるで町内は時ならぬ祭礼の光景を出現するようになった。こんな意外なものが、つい三、四月あたりまで食うや食わずの凶年に騒いでいた馬籠あたりの村民を待ち受けていようとは。それは一切の過去の哀傷を葬り去ろうとするような大きな騒動にまで各地に広がった。そして、多くの人の心を酔うばかりにさせた。
熱田《あつた》太神宮のお札は蓬莱屋《ほうらいや》の庭の椿《つばき》の枝へも降り、伏見屋の表格子《おもてごうし》の内へも降り、梅屋の裏座敷の庭先にある高塀《たかべい》の上へも降った。まだそのほかに、八幡宮のお札の降ったところが二か所もある。いずれも奇異の思いに打たれて、ありがたく頂戴《ちょうだい》したという。こうなると、人一倍精力のあるとともにまた迷信も深い上の伏見屋の隠居はじっとしていない。どんな金満家でもこんな祝いの時の酒や投げ餅を出し惜しむものは流行節《はやりぶし》に合わせて「貧乏せ、貧乏せ」と囃《はや》し立てられると聞いては、なおなお黙って引っ込んでいない。桝田屋で四斗の餅を投げたものなら、こちらは本家と隠宅とで八斗の餅を投げると言って、親類の女衆から出入りのものまで呼び集め、村じゅうのものへ拾わせるつもりで祝いの餅をついた。投げた。投げた。八斗の餅は空を飛んで、伏見屋の表に群がり集まる村民らの袂《たもと》へはいれば懐《ふところ》へもはいった。その時は、四斗樽の鏡をも抜いて、清酒のほかに甘酒まで用意し、辛《から》い方でも甘い方でも、御勝手《ごかって》飲み放題という振る舞いであった。
「ホウ、ただ飲み、ただ取りだ。」
と言うものさえある。
村のものは、氏神諏訪小社の改築も工事落成の近いのに事寄せて、にわかに狂言の催しまでも思い立った。気の早いものはそのけいこにすら取りかかった。この空気は――たといそれが一時的であるにしても――今まで主従の重い関係にあった将軍家没落の驚きを忘れさせ、代替《だいがわ》り家督相続から隠居養子|嫁娶《よめとり》の事まで届け出たような権威の高いものが眼前に崩《くず》れて行ったことを忘れさせ、葵《あおい》の紋のついた提灯《ちょうちん》さえあればいかなる山野を深夜独行するとも狐狼《ころう》盗難に出あうことはないとまで信ぜられていたほどの三百年来の主人を失ったことをも忘れさせた。
「ええじゃないか」の騒動はいつやむとも知れなかった。村の大根引きのころから、氏神遷宮の祭礼狂言が始まるころまで続いても、まだ謡《うた》の囃子《はやし》が絶えなかった。そこへ隣宿の妻籠《つまご》からはお札降りの祝いという触れ込みで、過ぐる四年前水戸浪士通行の際の姿にこしらえ、鎧《よろい》、兜《かぶと》、弓、鎗《やり》、すべて軍中のいでたちで、子供はいずれも引き馬に乗り、同勢およそ百余人の仮装行列が練り込んで来た。
本陣では皆門の外に出て見た。手習い子供のさかりの年ごろになる宗太はもとより、日ごろこもりがちに晩年を送っている吉左衛門までが出て見た。
「お粂《くめ》もおいで。早くおいで。」
とお民に呼ばれて、軽くて済んだ病気あげくのお粂もやせてかえって娘らしさを増したような姿を祖母や母のそばにあらわした。こうした全家族のものが門前に集まることは本陣ではめったになかった。多年村方の世話をして来た年老いた吉左衛門がともかくもまだ無事でいることは、それだけでも村の百姓らをよろこばせた。右も、左も、街道のわきは行列の見物でいっぱいだ。妻籠の大野屋の娘というが二人《ふたり》とも烏帽子《えぼし》陣羽織《じんばおり》のこしらえで、引き馬に乗りながら静かにその門前を通った。
「へえ、お土産《みやげ》。」
と言って、大野屋の娘に付き添いの男が祝いの供え餅《もち》一重《ひとかさ》ねをお粂や宗太への土産にくれた。
「ええじゃないか、ええじゃないか。」
宗太までが子供らしい声で、その口まねをして戯れる。
「宗太さま、それ、それ。」
大野屋の男は手を打ってよろこんだ。その時、行列のわきを走りぬけて、お粂の病気見舞いかたがた半蔵を見に来たのは妻籠の寿平次だ。寿平次はそこに家のものと一緒に門前に立つ半蔵を見つけて言った。
「半蔵さん、この騒ぎは何事です。」
「それは君、わたしの方から言うことでしょう。」
「きのう福島から見えた客がありましてね。あの辺は今、お札の降る最中だと言っていましたっけ。」
「降る最中はよかった。」
「世の中が大きく変わる時には、このくらいの瑞兆《ずいちょう》があってもいいなんて、そんなことをさももっともらしく言い触らすものもありますぜ。なんだかわたしは狐《きつね》にでもツマまれたような気がする。」
「しかし、寿平次さん、馬籠あたりの百姓はこの十年来祝うということを知りませんでしたよ。まあ、みんな祝いたければ祝え、そう言ってわたしは見ているところです。」
この表面《うわべ》のにぎやかさにかかわらず、強い嵐《あらし》を待ち受けるような気味の悪い静かさが次第に底の方で街道を支配し始めた。名古屋の方面から半蔵のところへ伝わって来る消息によると、なかなか「えいじゃないか」どころの話ではない。薩長の真意が慶喜を誅《ちゅう》し、同時に会津の松平|容保《かたもり》と桑名の松平|定敬《さだのり》とを誅戮《ちゅうりく》するにあることが早く名古屋城に知れ、尾州の御隠居はこの形勢を案じて会桑《かいそう》二藩の引退を勧告するために、十月の末にはすでに病を力《つと》めて名古屋から上京したとある。御隠居は実に会桑二侯の舎兄《しゃけい》に当たるからで。
万石以上の諸大名はいずれも勅命を奉じて続々京都に集合しつつあると聞くころだ。天下の公議によりこの国の前途を定めようとするものが京都を中心に渦巻《うずま》き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩の島津家、長州の毛利家、芸州藩の総督、それに徳山藩の世子、吉川家の家老などが、いずれも三、四百人から二
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