前後して京都にはいった景蔵からの便《たよ》りも次第に半蔵のもとへ届くようになった。彼はその友人の京都便りを読んで、文久|元治《げんじ》の間に朝譴《ちょうけん》をこうむった有栖川宮親王《ありすがわのみやしんのう》以下四十余人の幽閉をとかれたことを知り、長いこと機会を待っていた岩倉|具視《ともみ》の入洛《じゅらく》までが許されたことを知った。先帝の左右に侍して朝廷の全権を掌握していた堂上の人たちは次第にその地位を退き、朝廷における中心の勢力も移り動きつつある。先帝|崩御《ほうぎょ》の影響がどこまで及んで行くかはほとんど測りがたい、と景蔵の便りには言ってある。新帝はまだようやく少年期を終わらせらるるほどのお年ごろにしか達せられない、一方にはいよいよ幕府反対の旗色を鮮《あざや》かにして岩倉公らに結ぶ薩摩《さつま》があり、一方には気味の悪い沈黙を守って新将軍の背後《うしろ》に控えている会津と桑名がある、その間には微妙な関係に立つ尾州があり土佐《とさ》があり越前《えちぜん》があり芸州がある、こんな中でやかましい兵庫開港と長州処分とが問題に上ろうとしている、とある。今や人心はほとんど向かうところを知らない、諸藩の内部は分裂と党争とを事としている、上御一人よりほかに万民を統一するものはなくなった、とある。おそらく闘争は神代よりあった、上御一人をして万《よろ》ずの族《やから》を統《す》べさせたもうことは神の大御心の測りがたいところではあるまいか、ともある。
五
土蔵付き売屋。
これは、傾きかけた徳川幕府の大身代をどうかしてささえられるだけささえようとしているような、その大番頭の一人《ひとり》とも言うべき小栗上野《おぐりこうずけ》の口から出た言葉である。土蔵付き売屋とは何か。それは幕府が外国政府より購《あがな》い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友|喜多村瑞見《きたむらずいけん》との協力の下に、元治元年あたりからその計画があって、いよいよ慶応元年のはじめより経営の端緒についた横須賀《よこすか》の方の新しい造船所をさす。どうして造船所が売屋であるのか。どうしてまた、それがいよいよ出来《しゅったい》の上は旗じるしとして熨斗《のし》を染め出しても、なお土蔵付きの栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔《かいぎゃく》でもない。その内心には、もはや時事はいかんともすることができないと知りながらも、幕府の存在するかぎり、一日も任務を尽くさねばならないとする人の口から出た言葉である。実際、幕府内にはこういう人もいた。こういう諧謔の意味は知る人ぞ知ると言って、その志を憐《あわれ》む喜多村瑞見のような人もまた幕府内にいた。言って見れば、山上一族が住む相州|三浦《みうら》の公郷村《くごうむら》からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手によって開き始められていたのだ。地中海にある仏国ツウロン港の例にならい、ややその規模を縮小し、製鉄所、ドック、造船場、倉庫等の従来東洋になかった計画がそこに起こり始めていたのだ。そして、江戸幕府が没落の運命をたどりつつあったことは、幕府内部のものですらそれを痛感していた間にも、来たるべき時代のためにせっせとしたくを怠るまいとするような、こんな近代的な設備がその一隅《いちぐう》には隠れていた。
十五代将軍|慶喜《よしのぶ》は、あだかもこの土蔵付き売屋の札をながめに徳川の末の代にあらわれて来たような人である。その人を好むと好まないとにかかわらず、当時この国の上下のものが将軍職として仰ぎ見ねばならなかったのも、一橋からはいって徳川家を相続した慶喜である。しかし、この新将軍が貴冑《きちゅう》の族《やから》ながらも多年内外の政局に当たり、見聞も広く、経験も積んでいて、決して尋常の貴公子でないことを忘れてはならない。
慶喜の新生涯は幾多の改革に着手することから始められた。これは文久改革以来の慶喜の素志にもより、一つは長州征伐の大失敗が幕府の覚醒《かくせい》を促したにもよる。そういう幕府は無謀な大軍を西へ進める当時に、尾州の御隠居や越前藩主なぞの諫争《かんそう》をきき入れないでおいて、今となって目をさましてもおそかった。しかしおそくも目をさましたのは、さまさないには勝《まさ》っている。この戦争によって幕府をはじめ諸藩の軍制および諸制度はにわかに改革を促された。従来、数十人ないし百人以上の家臣従僕が列をなして従った大名|旗下《はたもと》の供数も、万石以上ですら従者五人、布衣《ほい》以下は侍一人に草履取り一人とまで減少された。二百年間の繁文縟礼《はんぶんじょくれい》[#「縟礼」は底本では「褥礼」]が驚くべき勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風《ふう》に移り、重い役人でも単騎独歩で苦しくないとされるようになったのは、皆この慶喜の時代に始まる。フランス伝習の陸軍所が建設せられ、御軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改めの廃止、中奥御小姓《なかおくおこしょう》同御番の廃止、御持筒頭《おもちづつがしら》の廃止、御先手《おさきて》御留守番と西丸御裏御門番と頭火消役四組との廃止なぞも、またその結果だ。すべて古式古風な散官遊職は続々廃止されて、西洋陸軍の制度に旗本の士を改造する方針が立てられた。もはや旗本の士は殿様の威儀を捨てて単騎独歩する元亀《げんき》天正《てんしょう》の昔に帰った。とにもかくにもいわゆる旗下《はたもと》八万騎を挙《あ》げて洋式の陸軍隊を編成し、応募の新兵はフランス人の教官に託し、従来|羽織袴《はおりはかま》に刀を帯びて席上にすわっていたものに筒袖《つつそで》だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏《じゅんら》せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政の手始めが旧制の一大改革にあったかがわかる。
この方針は地方にまで及んで行った。旧《ふる》い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、助郷《すけごう》の苦痛とする刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。手形なしには関所をも通れなかったほどの婦人が旅行の自由になったことは、この改革に忘れてならないことの一つだ。日ごろ深窓にのみこもり暮らした封建時代の婦人もその時すでに解放の第一歩を踏み出した。
もともと慶喜は自ら進んで将軍職を拝した人でもない。家茂《いえもち》薨去《こうきょ》の後は、尾州公か紀州公こそしかるべしと言って、前将軍の後継者たることを肯《がえん》じなかった人である。周囲の懇望によりよんどころなく徳川の家督を相続しても、それは血統の事であるとして、容易に将軍職を受けようとは言わなかったのもこの人だ。所詮《しょせん》、徳川家も滅亡か、との松平春嶽《まつだいらしゅんがく》らの異見を待つまでもなく、天下公論の向かうところによっては少しの未練なく将軍職をなげ出そうとは、就職当時からの慶喜が公武一和の本領ででもあったのだ。
この十五代ほど四方八方からの誤解の中に立った人もめずらしい。前将軍の早世も畢竟《ひっきょう》この人あるがためだとして、慶喜を目するに家茂の敵《かたき》であると思う輩《やから》は幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿《くげ》たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の舞台に上って来たことを恐れた。慶喜が徳川家を相続するとは言っても、将軍職を受けることは固く辞したいと言い出した時に、それを聞いて油断のならない人物としたのは岩倉公だ。慶喜の人物を評して、「譎詐《けっさ》百端《ひゃくたん》の心術」の人であるとなし、賢い薩州侯の公論を至極《しごく》公平に受けいれることなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀《ふところがたな》とも言うべき水戸出身の原|市之進《いちのしん》とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵《おおくぼいちぞう》だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡のあるのは警戒しなければならないとしたのは長州の木戸準一郎《きどじゅんいちろう》だ。
しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館《こうどうかん》の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。朝廷と幕府とが相対立しすべての方針が二途に分かれるような現状を破って、天皇の大御代《おおみよ》を出現しないかぎり、海外諸国の圧迫に対抗してこの国の独立を維持しがたいとの民間志士の信念を受けいれたものも慶喜であった。自ら進んで諸侯の列に下り、この国を郡県の制度の下に置くか、あるいはドイツあたりの連邦の制度に改めるかの一大改革を行ないたいとの念が早くもその胸のうちにきざしはじめていたのもこの新将軍であった。その意味から言って、飽くまで公武一和を念とせられ、王政復古を急ぐ岩倉公らを戒められたという先帝の崩御《ほうぎょ》ほど、この慶喜にとっての深い打撃はなかった。およそ先帝を惜しみ奉らないものはない中で、ことにその悲しみを深くしたものは、言うことなすこと周囲に誤解された慶喜であろう。大政奉還の悲壮な意志は後日を待つまでもなく、おそらく将軍職を拝してから間もなかった霜夜の御野辺送《おんのべおく》りを済ました時に、すでにこの人の内に動いたであろう。
慶応三年といえば西暦千八百六十七年、実に十九世紀の後半期に当たる。フランスではナポレオン第三世の時代に当たり、イギリスではヴィクトリア女皇の時代に当たる。新知識を吸集するに鋭意な徳川新将軍の代となってから、仏国公使ロセスの建言を用い、新内閣の組織を改め、大いに人材登庸の道を開き、商工業に関する諸税を課することから鉱山を開き運輸を盛んにすることまで、種々《さまざま》な計画は皆「土蔵付き売屋」の意味を帯びていた。将軍家の弟なる松平|民部太夫《みんぶだゆう》、外国奉行喜多村|瑞見《ずいけん》などの人たちが前後して仏国に使いする日をすら迎えた。こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにかこの国の背景としても相対抗するようになった。いよいよ兵庫開港の議も決せられ、長州藩主父子も許された。最も古くて、しかも最も新しい太陽を迎えようとする思いは、日一日と急な時勢の潮流と相まって、各人の胸に入り乱れた。
その年の九月には、王政復古を待ち切れないような諸勢力が相呼応して慶喜の目の前にあらわれかけて来た。その意は土佐を中心に頭を持ち上げて来た公儀政体組織の下に温和に王政復古の実をあげたいという説を手ぬるいとなし、長州芸州と連合して一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげようとするにある。往昔関ヶ原の合戦に屈してからこのかた、西の国のすみに忍耐し続けて来た松平修理太夫領内の健児らが、三世紀にわたる徳川氏の抑圧を脱しようとして、勇敢に動き始めたというは不思議でもない。おまけに相手は防長征討軍の苦《にが》い経験をなめ、いったん討死《うちじに》の覚悟までした討幕の急先鋒《きゅうせんぽう》だ。この尻《しり》押しには、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻《みたじり》に着こうというのであり、長州でもそれを待って相共に兵を上国に送ろうとして、出発の準備にいそがしかった。いわゆる薩長芸三藩が攻守同盟の成立だ。この形勢をみて取った松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、一新更始の道を慶喜に建白した。過去の是非曲直を弁難するとも何の益がない、この際は大きく目を開いて万国に対しても恥じないような大根底を打ち建てねばならない、それには天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の国体を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した
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