とかさ、物のあわれとかいうことが深く説いてある。そこへ行くと、平田先生はもっと露骨だ。考えることが丸裸《まるはだか》だ――いきなり、生め、ふやせだ。」
 こんな話も出た。
 その日、正香はあまり長くも半蔵の家に時を送らなかった。祭典の模様を伝えるだけに止めて、景蔵と香蔵の二人も一緒に座を立ちかけた。半蔵の家族が一晩ぐらいゆっくり泊めたいと言って引き留めているうちに、三人の客は庭へおりて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結んだ。
「暮田さんは京都へお出かけになるんだよ。ゆっくりしていられないんだよ。」
 と半蔵は妻に言って見せて、庭先にある草履《ぞうり》を突ッ掛けながら、急いで客と一緒になった。彼は表門から街道へ出ないで、裏口の方へと客を誘った。
「暮田さん、そこまでわたしが御案内します。こちらの方に静かな細い道があります。」
 先に立って彼が案内して行ったは、吉左衛門が隠居所と土蔵の間を通りぬけ、掘り井戸について石段を降りたところだ。木小屋、米倉なぞの前から、裏の木戸をくぐると、本陣の竹藪《たけやぶ》に添うて街道と並行した村の裏道がそこに続いている。
「そう言えば、師岡正胤《もろおかまさたね》もどうしていますかさ。ひょっとすると、わたしより先に京都へ出ているかもしれません。あの師岡も、今度の大赦にあって、生命拾《いのちびろ》いをしたように思っていましょう。」
 青い竹の根のあらわれた土を踏みながら、正香は歩き歩き旧友のことを言い出した。例の三条河原事件で、足利将軍らが木像の首を晒《さら》しものにした志士仲間にも、ようやく解放の日が来た。正香は上田藩の方に幽囚の身となっていた師岡正胤のうわさをして、今日あるよろこびを半蔵に言って見せた。
 向こうには馬籠の万福寺の杜《もり》が見える。その畠《はたけ》の間まで行って、しばらく正香と半蔵とはあとから話し話し歩いて来る景蔵らを待った。そこいらには堅い地を割って出て来て、花をつけている春の草もある。それが二人の足もとにもある。正香はどんな京都の春が自分を待ち受けていてくれるかというふうで、その畠の間にある柿《かき》の木のそばへ一歩退きながら、半蔵の方を見て言った。
「さあ、時局もどうなりますか。尊王佐幕の大争いも、私闘に終わってはつまりません。一、二の藩が関ヶ原の旧怨《きゅうえん》を報いるようなものであってはなりませんね。どうしてもこれは、国をあげての建て直しでなくちゃなりませんね。」
「いずれ京都では鉄胤《かねたね》先生もお待ちかねでしょう。」
「まあ、今度はあの先生にしかられに行くようなものです。しかし、青山君、見ていてくれたまえよ。長い放浪で、わたしもいくらか修業ができましたよ。」


 にわかに同門の人たちも動いて来た。正香の話にもあるように、師岡正胤をはじめ、八、九人の三条河原事件に連坐《れんざ》した平田門人らは今度の大赦に逢《あ》って、また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も沢家に身を寄せることを志して上京の途中にあり、同じ先輩格で白河家《しらかわけ》の地方用人なる倉沢義髄《くらさわよしゆき》、それに原|信好《のぶよし》なぞは上京の機会をうかがっている。岩倉家の周旋老媼《しゅうせんばば》とまで言われて多くの志士学者などの間に重きをなしている松尾|多勢子《たせこ》のような活動的な婦人が帰郷後の月日をむなしく送っているはずもない。多勢子とは親戚《しんせき》の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って、近く中津川の家を出ようとしている。
 その日、半蔵は正香や景蔵らを馬籠の宿はずれまで見送って、同じ道を自分の家へ引き返した。三人の客がわざわざ山吹村からさげて来てくれた祭典記念の神酒《みき》と菓子の折《おり》とがそのあとに残った。彼はそれを家の神棚《かみだな》に供えて置いて、そばへ来る妻に言った。
「お民、このお神酒《みき》は家じゅうでいただこうぜ。お菓子もみんなに分けようぜ。」
「きっと、お父《とっ》さんが喜びますよ。」
「おれもこれをいただいて、今夜はよく眠りたい。いろいろなことを考えるとおれは眠られなくなって来るよ。このおれの耳には、どれほどの騒がしい音が聞こえて来るかしれない。」
「あなたには眠られないということが、よくあるんですね。」
「ごらんな、景蔵さんもまた近いうちに京都へ出かけるそうだ。あの人もぐずぐずしちゃいられなくなったと見える。」
「あなた――あなたは家のものと一緒にいてくださいよ。お父さんのそばにいてくださいよ。あのお父さんも、いつどんなことがあるかしれませんよ。」
「そりゃお前に言われるまでもないサ。まあ、条山神社のお神酒《みき》でもいただいて、今夜はよく眠ることだ。こういう時世になって来ると、地方なぞはてんで顧みられない。おれのような縁の下の力持ち――そうだ、おれは自分のことを縁の下の力持ちだと思うが、どうだい。宿場の骨折りなぞはお前、説いても詮《せん》のないことだ。」
 夫婦はこんな言葉をかわした。
 旅するものによい季節を迎えて、やがてこの街道では例年のとおりな日光例幣使の一行を待ち受けた。四月の声を聞くころには、その先触れも到来するようになった。
 二百十日の大嵐《おおあらし》にたとえて百姓らの恐怖する「例幣使さま」の通行ほど、当時の社会における一面の真相を語るものはない。それは脅迫と強請のほかの何物でもない。毎年のきまりで馬籠の宿方《しゅくがた》が一行に搾《しぼ》られる三、四十両の金があれば、たとい十両につき三俵替えの値段でも、九俵から十二俵の飯米を美濃《みの》地方より輸入することができる。
 事実、この地方には、三月四月は食いじまいと百姓のよく言うころがやって来ていた。しかも、前年凶作のあとを受けてのその食いじまいだ。引き続いた世間一統の米高で、盗難はしきりに起こる、宿内での大きな造り酒屋、桝田屋《ますだや》と伏見屋との二軒の門口には、白米一升につき六百文で売り渡せとの文句を張り札にして、夜中にそれをはりつけて行くものさえあらわれる。上の伏見屋の金兵衛が古稀《こき》の祝いを名目に、村じゅうへの霑《うるお》いのためとして、四俵の飯米を奮発したぐらいでは、なかなか追いつかない。余儀なく、馬籠の町内をはじめ、荒町、峠村では、ごく難渋なものへ施し米《まい》でも始めねばなるまいと言って騒いでいるほどの時だ。
 そこへ「例幣使さま」だ。行く先の道中で旅館に金をねだったり、人足までもゆすったりするようなその一行は、公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ約五百人からの大集団で、例の金の御幣《ごへい》を中心に文字通りの大嵐のような勢いで、四月六日には落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような乱暴な人たちの耳に、宿駅の難渋を訴える声がはいろうはずもない。服従に服従を重ねて来た地方の人民も、こんな恐ろしい「例幣使さま」の掠奪《りゃくだつ》に対してはこれ以上の忍耐はできなかった。
「逃げろ、逃げろ。」
 その声は継立《つぎた》てをしいられる会所の宿役人仲間からも、問屋場の前に集まる人足、馬力の仲間からも起こった。ちょうど会所に詰めていた伊之助は驚きあわてて、半蔵のところへ飛んで来た。
「半蔵さん、会所のものはもうみんな逃げました。それあっちへ行った、それこっちへ行ったと言って、刀に手をかけた人たちが人足を追い回しています。あなたもわたしと一緒に逃げてください。」
 これには半蔵も言葉が出なかった。彼は伊之助と手を引き合わないばかりにして、家の裏口からこっそり本陣林の方へ落ちのびた。


「いや笑止《しょうし》、笑止。」
 それを言って金兵衛は上の伏見屋を飛び出す。吉左衛門は本陣の裏二階から出て見る。二人の隠居が言い合わせたように街道へ飛び出し、互いに驚いたような顔を合わせて、あちこちと見回したころは、例幣使の一行が妻籠《つまご》をさして通り過ぎたあとだった。
「はッ、はッ、はッ、は。」
 吉左衛門は吉左衛門で、泣いているのか笑っているのかわからなかった。
 その時になると、半蔵ももはや三十七歳である。ずっと年若な時分とちがい、彼もそれほど人を毛ぎらいしないで済んだから、木曾福島の役人衆でもだれでもつかまえて自分が世話する村方の事情を訴えることもできたし、なんのこれしきの凶年ぐらいに、という勇気も出た。木曾路には藤《ふじ》の花が咲き出すころに、彼は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しにも行って来た。この領民の難渋と宿駅の疲弊とを尾州藩で黙ってみていたわけではもとよりない。同藩でもよく木曾地方のために尽くした。前年の冬には宿駅救助として宮《みや》の越《こし》、上松《あげまつ》、馬籠の三宿へ六百両ずつを二か年度の割に貸し渡し、その年の正月には木曾谷中へ五千両をお下げ金として分配した。のみならず、かねて馬籠の村民一同が嘆願した上納|御年貢《おねんぐ》の半減も容赦され、そのほかにこの際は特別の場合であるとして、三月には米にして六十石、この金高百九十両余がほどを三回に分け、一度分金十七両と米十俵ずつとを窮民の救助に当てることになった。
 いかんせん、この尾州藩の救いは右から左へとすぐ受け取れるものでなかったし、村民は救いの手を目の前に見ながら飢えねばならなかった。半蔵が伊之助その他の宿役人を会所に集め、向こう十五日間を期して馬籠宿としての施し米を始めたのはこの際である。配当は馬籠の町内、荒町、峠村。白米、一人一合|宛《あて》。老人子供は五勺ずつ。
 こんな日がやがて十日も続いた。村内には松の樹《き》の皮を米にまぜ、自然薯《じねんじょ》なぞを掘って来て飢えをしのぐものもできた。それを聞くと、半蔵は捨て置くべき場合でないとして、町内有志への相応な救施を勧誘したいと思い立ったが、それには率先して自分の家の倉を開こうと決意した。
 本陣の勝手口の木戸をあけたところに築《つ》いてある土竈《どがま》からはさかんに枯れ松葉の煙のいぶるような朝が来た。餅搗《もちつ》きの時に使う古い大釜《おおがま》がそこにかかった。日ごろ出入りの百姓たちは集まって来て竈《かまど》の前で働くものがある。倉から勝手口へ米を運ぶものもある。おまんやお民までが手ぬぐいをかぶり襷《たすき》がけで、ごく難渋なもののために白粥《しらがゆ》をたいた。
 半蔵は佐吉を呼んで言った。
「お前は一つ村方へ回ってもらおう。朝の粥《かゆ》をお振る舞い申すから、お望みのかたはどなたでも小手桶《こておけ》をさげて来るようにッて、そう言っておくれ。」
 そのわきには清助も立っていて、
「半蔵さま、これは家内何人という札にして渡しましょう。白米一升に水八升の割にして、一人に三合ずつ振る舞いましょう。」
 この話が村方へ知れ渡るころには、小手桶をさげた貧窮な黒鍬《くろくわ》なぞが互いに誘い合わせて、本陣の門の内へ集まって来るようになった。その朝は吉左衛門も心配顔に、裏二階から母屋《もや》の方へ杖《つえ》をついて来た。「どうして天明三年の大飢饉《だいききん》はこんなものじゃなかったと言うよ。おれの吾家《うち》の古い帳面には、あの年のことが残ってる。桝田屋《ますだや》でも、伏見屋でも、梅屋でも、焚《た》き出しをして、毎朝百人から百二十人ほどの人数に粥《かゆ》を振る舞ったそうだよ。」
 吉左衛門の思い出話だ。


 五月を迎えるころには、馬籠の村民もこんな苦しいところを切り抜けた。尾州藩からの救助金は配当され、大井米もはいって来るようになった。百姓らはいずれも刈り取った麦に力を得て、柴落《しばおと》し、早苗取《さなえと》りと続いたいそがしい農事に元気づいた。そこにもここにも田植えのしたくが始まる。大風に、強雨に、天災のしきりにやって来た前年とも違い、陽気は極々上々《ごくごくじょうじょう》と聞いて、七十一歳の最後の思い出に、美濃の浅井の医師のもとへ養生の旅を思い立つ上の伏見屋の金兵衛のような人もある。
 暮田正香と
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