人は下《しも》なる人に奪はれまじと構へ、下なるは上のひまを窺《うかが》ひて奪はむと謀《はか》りて、かたみに仇《あだ》みつゝ、古《いにしえ》より国治まりがたくなも有りける。そが中に、威力《いきおい》あり智《さと》り深くて、人をなつけ、人の国を奪ひ取りて、又人に奪はるまじき事量《ことはかり》をよくして、しばし国をよく治めて、後の法《のり》ともなしたる人を唐土《もろこし》には聖人とぞ言ふなる。そも/\人の国を奪ひ取らむと謀るには、よろづに心を砕き、身を苦しめつゝ、善《よ》きことの限りをして、諸人《もろびと》をなつけたる故に、聖人はまことに善き人めきて聞《きこ》え、又そのつくり置きたる道のさまもうるはしくよろずに足《た》らひて、めでたくは見ゆれども、まづ己《おのれ》からその道に背《そむ》きて、君をほろぼし、国を奪へるものにしあれば、みな虚偽《いつわり》にて、まことはよき人にあらず、いとも/\悪《あ》しき人なりけり。もとよりしか穢悪《きたな》き心もて作りて、人を欺く道なるけにや、後の人の表《うわ》べこそ尊み従ひがほにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国の助けとなることもなく、その名のみひろごりて、遂《つい》に世に行《おこな》はるることなくて、聖人の道はたゞいたづらに、人をそしる世々の儒者《ずさ》どもの、さへづりぐさとぞなれりける。」
 多くの覇業《はぎょう》の虚偽、国家の争奪、権謀と術数と巧知、制度と道徳の仮面なぞが、この『直毘《なおび》の霊《みたま》』に笑ってある。北条《ほうじょう》、足利《あしかが》をはじめ、織田《おだ》、豊臣《とよとみ》、徳川なぞの武門のことはあからさまに書かれてないまでも、すこし注意してこれを読むほどの人で、この国の過去に想《おも》いいたらないものはなかろう。『直毘の霊』の中にはまた、中世以来の政治、天《あめ》の下《した》の御制度が漢意《からごころ》の移ったもので、この国の青人草《あおひとぐさ》の心までもその意《こころ》に移ったと嘆き悲しんである。「天皇尊《すめらみこと》の大御心《おおみこころ》を心とせずして、己々《おのおの》がさかしらごゝろを心とする」のは、すなわち、異国《あだしくに》から学んだものだと言ってある。武家時代以前へ――もっとくわしく言えば、楠《くすのき》氏と足利氏との対立さえなかった武家以前への暗示がここに与えてある。御世《みよ》御世の天皇の御政《おんまつりごと》はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙《ことあ》げさえもさらになかった自然《おのずから》だ、とも教えてある。
 この自然に帰れ、というふうに、あとから歩いて行くものに全く新しい方向をさし示したのが本居大人の『直毘の霊』だ。このよろこびを知れ、というふうに言葉の探求からはいった古代の発見をくわしく報告したものが、翁の三十余年を費やした『古事記伝』だ。直毘《なおび》(直び)とはおのずからな働きを示した古い言葉で、その力はよく直くし、よく健やかにし、よく破り、よく改めるをいう。国学者の身震いはそこから生まれて来ている。翁の言う復古は更生であり、革新である。天明寛政の年代に、早く夜明けを告げに生まれて来たような翁のさし示して見せたものこそ、まことの革命への道である。
 その考えに力を得て、半蔵は寝床の上にすわったまま、膝《ひざ》の上に手を置きながら自分で自分に言って見た。
「寿平次さんの言い草ではないが、われわれは下から見上げればこそ、こんなことを考えるのだ。」


 遷宮式のあるという当日には、半蔵は午後から店座敷に敷いてあった寝床を畳んだ。下痢も止まったばかりで、彼はまだ青ざめた顔をしていたが、それでもお民に手伝わせて部屋《へや》の内を掃き、袋戸棚《ふくろとだな》に続いている床の間を片づけた。
 遙拝《ようはい》のしるしばかりに国学四大人の霊号を書きつけたものが、やがてその床の間に飾られた。荷田宿禰羽倉大人《かだのすくねはくらのうし》。賀茂県主岡部大人《かものあがたぬしおかべのうし》。秋津彦瑞桜根大人《あきつひこみずさくらねのうし》。神霊能真柱大人《たまのみはしらのうし》。あだかもそれらの四人の大先輩はうちそろってこの辺鄙《へんぴ》な山家へ訪れて来たかのように。そして、半蔵夫婦が供える神酒《みき》や洗米《せんまい》なぞを喜び受けるかのように。
 こういう時になくてならないのは清助の手だ。手先のきく清助は半蔵よりずっと器用に、冬菜《ふゆな》、鶯菜《うぐいすな》、牛蒡《ごぼう》、人参《にんじん》などの野菜を色どりよく取り合わせ、干し柿《がき》の類をも添え、台の上に載せて、その床の間を楽しくした。
 半蔵夫婦が子供も大きくなった。姉のお粂《くめ》は十二歳、弟の宗太は十歳にもなる。この姉弟《きょうだい》の子供はまた、おまんに連れられて、隣家の伏見屋から贈られた大きな九年母《くねんぼ》と林檎《りんご》の花をそこへ持って来た。伊之助も遷宮式のあることを聞いて、霊前に供えるようにと言って、わざわざみごとな九年母などを本陣へ寄せたのだ。
 思いがけない祭りの日でも来たように子供らは大騒ぎした。おまんはかわいいさかりの年ごろになって来た孫娘が部屋から走り出て行く姿を見送りながら、
「でも、お民、早いものじゃないか。宗太の方はまだそれほどでもないが、お粂はもうおとなの話なぞに気をつけきっているよ。耳を澄まして、じっとみんなの言うことを聞いてるよ。」
「ほんとに、あの娘《こ》のいるところじゃ、うっかりしたことは話せなくなりました。」
 とお民も笑った。
 その日の式は山吹村の方で夜の丑《うし》の刻《こく》に行なわれるという。伊那の谷から中津川辺へかけてのおもな平田門人のほとんど全部、それにまだ入門しないまでも篤胤の信仰者として聞こえた熱心な人たちが古式の祭典に参列するという。半蔵は自分一人その仲間にもれたことを思い、袴《はかま》をつけたままの改まった心持ちで、山吹村|追分《おいわけ》の御仮屋《おかりや》から条山神社の本殿に遷《うつ》さるるという四大人の御霊代《みたましろ》を想像し、それらをささげて行く人のだれとだれとであるべきかを想像した。
 その年は前年凶作のあとをうけ、かつは諒闇《りょうあん》のことでもあり、宿内倹約を申し合わせて、正月定例の家祈祷《いえきとう》にすら本陣では家内限りで蕎麦《そば》切りを祝ったくらいである。そんな中で遷宮式の日を迎えた半蔵は、清助と栄吉を店座敷に集めて、焼※[#「魚+昜」、274−16]《やきするめ》ぐらいを肴《さかな》に、しるしばかりの神酒《みき》を振る舞った。床の間に燈明のつくころには、伊之助も顔を見せたので、半蔵はこの隣人を相手に、互いに霊前で歌なぞをよみかわした。いつのまにか伊之助は半蔵の歌の友だちになって、年寄役としての街道の世話、家業の造酒なぞの余暇に、半蔵を感心させるほど素直な歌を作るような人である。
 夜はふけた。伊之助も帰って行った。そろそろ山吹村の方では行列が動きはじめたかとうわさの出るころには、なんとなくおごそかな思いが半蔵の胸に満ちて来た。彼はその深夜に動いて行く松明《たいまつ》の輝きを想像し、榊《さかき》、籏《はた》なぞを想像し、幣帛《ぬさ》、弓、鉾《ほこ》なぞを想像し、その想像を同門の人たちのささげて行く四大人の御霊代にまで持って行った。彼はまた、その行列の中に加わっている先輩の暮田正香《くれたまさか》や、友人の景蔵や香蔵の姿を想像でありありと見ることができた。お民もその夜は眠らない。彼女は夫と共に起きていて、かわるがわる店座敷の戸をあけては東南の方の空を望みに行った。旧暦三月末のことで、暗い戸の外には花も匂《にお》った。


 同門、および準同門の人たちを合わせると、百六十人の篤胤の弟子《でし》たちが式に参列したという話を持って、景蔵や香蔵が大平峠《おおだいらとうげ》を越して馬籠まで帰って来たのは、それから二日ほど過ぎてのことである。
「青山君、いよいよわたしも青天白日の身となりましたよ。」
 と言って、伊那から景蔵らと同行して来た暮田正香もある。そういう正香は諒闇の年を迎えると共に大赦《たいしゃ》にあって、多年世を忍んでいた流浪《るろう》の境涯《きょうがい》を脱し、もう一度京都へとこころざす旅立ちの途中にある。
 二人の友人ばかりでなく、この先輩までも家に迎え入れて、半蔵は西向きに眺望《ちょうぼう》のある仲の間の障子を明けひろげた。その部屋に客の席をつくった。何よりもまず彼は条山神社での祭典当日のことを聞きたかった。
「いや、万事首尾よく済みました。」と景蔵が言った。「式のあとでは、剣《つるぎ》の舞《まい》もあり、鎮魂《たましずめ》の雅楽もありました。何にしろ君、伊那の谷としてはめずらしい祭典でしょう。行って見ると、京都の五条家からは奉納の翠簾《すいれん》が来てる、平田家からは蔵版書物の板木《はんぎ》を馬に幾|駄《だ》というほど寄贈して来てるというにぎやかさサ。どうして半蔵さんは見えないかッて、伊那の衆はみんな残念がっていましたよ。」
「せめて、あの晩の行列だけは半蔵さんに見せたかった。」と香蔵も言って見せる。「松尾さんのお母《っか》さん(多勢子《たせこ》)も京都からわざわざ出かけて来ていましたし、まだそのほかに参列した婦人が三、四人はありました。あの婦人たちがいずれも短刀を帯の間にはさんで、御霊代のお供をしたのは人目をひきましたよ。」
 その時、正香は条山神社の方からさげて来た神酒《みき》の小樽《こだる》と干菓子《ひがし》一折りとをそこへ取り出した。
「さあ、これだ。」
 と言って、祭典のおりに供えた記念の品を半蔵にも分けた。
「や、これはよいものをくださる。吾家《うち》の阿爺《おやじ》もさぞ喜びましょう。」
 半蔵は手を鳴らしてお民を呼んだ。そこへ来て客をもてなすお民を見ると、正香はすこし改まった顔つきで、
「奥さんには御挨拶《ごあいさつ》をしたぎりで、まだお礼も申しませんでした。いつぞやは、お宅の土蔵の中へ隠していただいた暮田です。」
 聞いているものは皆笑い出した。
 平田家から条山神社へ寄進のあったという篤胤遺愛の陽石の話になると、一座の中には笑い声が絶えない。陽石――男性の象徴――あれを自分の御霊代《みたましろ》として残し伝えたいとは、先師の生前に考えて置いたことであると言わるるが、平田家ではみだりに他へもらすべき事でないとして、ごく秘密にしていた。いつのまにかそれが世間へ伝聞して、好事《こうず》の者はわけもなしにおもしろがり、高い風評の種となっているところへ、今度条山神社を建てるについてはぜひにとの山吹社中の懇望だったのである。平田家では非常に迷惑がったともいう。天朝かまたは堂上方の内より御所望のあるために山吹の方へ譲らないなぞとは、とんでもない人の言い草で、決してそんなことのあるべきはずがなく、たとい右のようなお召状があっても差し出すべき品ではないと言って断わったという。ところが、山吹社中の方では、印度蔵志《いんどぞうし》の記事まで考証してある先師の遺品だと聞き込んで、懇望してやまない。それほどのお望みとあれば、ということになって、平田家から送られて来たのが御霊代の大陽石だ。それにはいろいろな条件が付いていた。風紀上いかがわしい品であるから、衆人の容易にうかがい見ないようなところにしたい、これを置く場所はいかように小さく粗末でも苦しくない、板宮《いたみや》かまたは厨子《ずし》のような物でもいい、とにかく御同殿の物のない一座ぎりのところで、本殿の後ろの社外に空地《あきち》もあろうから、そんな玉垣《たまがき》の内にでも安置してもらいたい。好事《こうず》の者が盗み取ることもないとは限るまいから堅く鎖を設けてもらいたい、とあったという。
「しかし、平田先生も思い切った物をのこしたものさね。」とだれかがくすくすやる。
「そこがあの本居先生と違うところさ。本居先生の方には男女《おとこおんな》の恋
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