たぶれたと見えて、きょうはまだだれも出て来ません。」
そう言って半蔵は会所の店座敷へ寿平次を誘い入れた。二人《ふたり》の話は互いの激しい疲労をねぎらうことから、毎日のように目の前を通り過ぎた諸団体のことに落ちて行った。
半蔵は言った。
「あの水戸浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。もうあんな鎧兜《よろいかぶと》や黒い竪烏帽子《たてえぼし》は見られませんね。」
「一切の変わる時がやって来たんでしょう。」と寿平次もそれを受けて、「――武器でも武人の服装でも。」
「まあ、長州征伐がそれを早めたとも言えましょうね。」
「しかし、半蔵さん、征討軍の鉄砲や大筒《おおづつ》は古風で役に立たなかったそうですね。なんでも、長防の連中は農兵までが残らず西洋の新式な兵器で、寄せ手のものはポンポン撃たれてしまったと言うじゃありませんか。あのミニエール銃というやつは、あれはイギリスが長州に供給したんだそうですね。国情に疑惑があらばいくらでも尋問してもらおう、直接に外国から兵器を供給された覚えはないなんて、そんなに長防の連中が大きく出たところで、後方《うしろ》に薩摩《さつま》やイギリスがついていて、どんどんそれを送ったら、同じ事でさ。そこですよ。君。諸藩に率先して異国を排斥したのはだれだくらいは半蔵さんだっても覚えがありましょう。あれほど大きな声で攘夷《じょうい》を唱えた人たちが、手の裏をかえすように説を変えてもいいものでしょうかね。そんなら今までの攘夷は何のためです。」
「へえ、きょうは君はいろいろなことを考えて、妻籠からやって来たんですね。」
「まあ見たまえ。破約攘夷の声が盛んに起こって来たかと思うと、たちまち航海遠略の説を捨てる。条約の勅許が出たかと思うと、たちまち外国に結びつく。まったく、西の方の人たちが機会をとらえるのの早いには驚く。あれも一時《いっとき》、これも一時《いっとき》と言ってしまえば、まあそれまでだが、正直なものはまごついてしまいますよ。そりゃ、幕府だってもフランスの力を借りようとしてるなんて、もっぱらそんな風評がありますさ。イギリスはこの国の四分五裂するのを待ってるが、フランスにかぎって決してそんなことはないなんて、フランスはまたフランスでなかなかうまい言《こと》を幕府の役人に持ち込んでるといううわさもありますさ。しかし、幕府が外国の力によって外藩を圧迫しようとするなぞ実にけしからんと言う人はあっても、薩長が外国の力によって幕府を破ったのは、だれも不思議だと言うものもない。」
「そんな、君のような――わたしにくってかかってもしようがない。」
これには寿平次も笑い出した。その時、半蔵は言葉を継いで、
「いくら防長の連中だって、この国の分裂を賭《と》してまでイギリスに頼ろうとは言いますまい。高杉晋作《たかすぎしんさく》なんて評判な人物が舞台に上って来たじゃありませんか。下手《へた》なことをすれば、外国に乗ぜられるぐらいは、知りぬいていましょう。」
「それもそうですね。まあ、長州の人たちの身になったら、こんな非常時に非常な手段を要するとでも言うんでしょうか。イギリスからの武器の供給は大事の前の小事ぐらいに考えるんでしょうか。わたしたちはお互いに庄屋ですからね。下から見上げればこそ、こんな議論が出るんですよ。」
「とにかく、寿平次さん――西洋ははいり込んで来ましたね。考うべき時勢ですね。」
寿平次が宿方の用談を済ましてそこそこに妻籠の方へ帰って行った後、半蔵は会所から本陣の表玄関へ回って、広い板の間をあちこちと歩いて見た。当宿お昼休みで十三日間もかかった大通行の混雑が静まって見ると、総引き揚げに引き揚げて行った幕府方のあわただしさがその後に残った。
そこへお民がちょっと顔を見せて、
「あなた、妻籠の兄さんと何を話していらしったんですか。子供は会所の方へのぞきに行って、あなたがたがけんかでもしてるのかと思って、目を円《まる》くして帰って来ましたよ。」
「なあに、そんな話じゃあるものか。きょうは寿平次さんにしてはめずらしい話が出た。あの人でもあんなに興奮することがあるかと思ったさ。」
「そんなに。」
「なあに、お前、けんかでもなんでもないさ。寿平次さんの話は、だれをとがめたのでもないのさ。あんまり世の中の変わり方が激しいもんだから、あの人はそれを疑っているのさ。」
「なんでも疑って見なけりゃ兄さんは承知しませんからね。」
「ごらんな、こう乱脈な時になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある。上州高崎在の風雅人で、木曾路の秋を見納めにして、この宿場まで来て首をくくった人もあるよ。」
「そんなことを言われると心細い。」
「まあ、賢明で迷っているよりかも、愚直でまっすぐに進むんだね。」
半蔵の寝言《ねごと》だ。
東照宮二百五十年忌を機会として大いに回天の翼を張ろうとした武家の夢もむなしい。金扇の馬印《うまじるし》を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公《いえもちこう》を失った後の上下のものが袖《そで》に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみならず、あの大きな都会には将軍進発の当時にもまさる窮民の動揺があって、飢えに迫った老幼男女が群れをなし、その町々の名を記《しる》した紙の幟《のぼり》を押し立て、富有な町人などの店先に来て大道にひざまずき、米価はもちろん諸品|高直《たかね》で露命をつなぎがたいと言って、助力を求めるその形容は目も当てられないものがあるとさえ言わるる。富めるものは米一斗、あるいは五升、ないし一俵二俵と施し、その他雑穀、芋《いも》、味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》を与えると、それらの窮民らは得るに従って雑炊《ぞうすい》となし、所々の鎮守《ちんじゅ》の社《やしろ》の空地《あきち》などに屯集《とんしゅう》して野宿するさまは物すごいとさえ言わるる。紀州はじめ諸藩士の家禄《かろく》は削減せられ、国札《こくさつ》の流用はくふうせられ、当百銭(天保銭)の鋳造許可を請う藩が続出して、贋造《がんぞう》の貨幣までがあらわれるほどの衰えた世となった。
革命は近い。その考えが半蔵を休ませなかった。幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。一方に会津、一方に長州薩摩というような東西両勢力の相対抗する中にあって、中国の大藩としての尾州の向背《こうはい》は半蔵らが凝視の的《まと》となっている。そこには玄同様付きの藩士と、犬千代様付きの藩士とある。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進めるだけの狭い扉《とびら》は半蔵らの前に開かれていた。彼は景蔵や香蔵と力をあわせ、南信東濃地方にある人たちとも連絡をとって、そちらの方に手を尽くそうとした。
四
慶応三年の三月は平田|篤胤《あつたね》没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那《いな》の谷の方に計画のあった新しい神社も、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長《もとおりのりなが》、平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代《みたましろ》を安置する空前の勧請遷宮式《かんじょうせんぐうしき》が山吹村の条山《じょうざん》で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。
このめずらしい条山神社の実際の発起者たる平田門人|山吹春一《やまぶきしゅんいち》は、不幸にも社殿の完成を見ないで前の年の九月に亡《な》くなった。それらの事情はこの事業に一頓挫《いちとんざ》を来たしたが、春一の嗣子左太郎と別家|片桐衛門《かたぎりえもん》とが同門の人たちの援助を得て、これを継続完成した。山吹社中が奔走尽力の結果、四大人の遺族から贈られたという御霊代は得がたい遺品ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘|白鞘《しらさや》の短刀。荷田家からは黄銅製の円鏡。それに平田家からは水晶の玉、紫の糸で輪につないだ古い瑠璃玉《るりだま》。まだこのほかに、山吹社中の懇望によって鉄胤から特に贈られたという先師篤胤が遺愛の陽石。
この報告が馬籠へ届くたびに、半蔵はそれを親たちにも話し妻にも話し聞かせて、月の二十四日と定まった遷宮式には何をおいても参列したいと願っていた。よい事には魔が多い。その二日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中にいた。
「半蔵さんは出かけられませんかね。」
「そいつは残念だなあ。この正月あたりから一緒に行くお約束で、わたしたちも楽しみにして待っていましたのに。」
この二人の友人が伊那の山吹村をさして発《た》って行く姿をも、半蔵は寝衣《ねまき》の上に平常着《ふだんぎ》を引き掛けたままで見送った。
ちょうど、その年の三月は諒闇《りょうあん》の春をも迎えた。友人らの発《た》って行った後、半蔵は店座敷に戻《もど》って東南向きの障子をあけて見た。山家も花のさかりではあるが、年が年だけにあたりは寂しい。彼は庭先にふくらんで来ている牡丹《ぼたん》の蕾《つぼみ》に目をやりながら、この街道に穏便《おんびん》のお触れの回ったのは正月十日のことであったが、実は主上の崩御《ほうぎょ》は前の年の十二月二十九日であったということを胸に浮かべた。十二月の初めから御不予の御沙汰《ごさた》があり、中旬になって御疱瘡《ごほうそう》と定まって、万民が平和の父と仰ぎ奉った帝《みかど》その人は実に艱難《かんなん》の多い三十七歳の御生涯《ごしょうがい》を終わった。
一方には王政復古を急いで国家の革新を改行しようとする岩倉公以下の人たちがあり、一方には天皇の密勅を奏請して大事を挙《あ》げようとする会津藩主以下の人たちがある。飽くまで公武一和を念とする帝はそのために御病勢を募らせられたとさえ伝えるものがある。雲の上のことは半蔵なぞの想像も及ばない。もちろん、この片田舎《かたいなか》の草叢《くさむら》の中にまで風の便《たよ》りに伝わって来るような流言にろくなことはない。しかし彼はそういう社会の空気を悲しんだ。おそらくこの世をはかなむものは、上御一人《かみごいちにん》ですら意のごとくならない時代の難《かた》さを考えて、聞くまじきおうわさを聞いたように思ったら、一層|厭離《おんり》の心を深くするであろう、と彼には思われた。
枕《まくら》もとには本居宣長の遺著『直毘《なおび》の霊《みたま》』が置いてある。彼はそれを開いた。以前には彼はよくそう考えた、勤王の味方に立とうと思うほどのものは、武家の修養からはいった人たちでも、先師らのあとを追うものでも、互いに執る道こそ異なれ、同じ復古を志していると。種々《さまざま》な流言の伝わって来る主上の崩御《ほうぎょ》に際会して見ると、もはやそんな生《なま》やさしいことで救われる時とは見えなかった。その心から、彼は本居大人の遺著を繰り返して見て、日ごろたましいの支柱と頼む翁の前に自分を持って行った。
宣長の言葉にいわく、
「古《いにしえ》の大御世《おおみよ》には、道といふ言挙《ことあ》げもさらになかりき。」
また、いわく、
「物のことわりあるべきすべ、万《よろず》の教《おしえ》ごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国《あだしくに》の沙汰《さた》なり。異国は、天照大御神《あまてらすおおみかみ》の御国にあらざるが故《ゆえ》に、定まれる主《きみ》なくして、狭蝿《さばえ》なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心《ひとごころ》あしく、ならはしみだりがはしくして、国をし取りつれば、賤《いや》しき奴《やっこ》も忽《たちま》ちに君ともなれば、上《かみ》とある
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