とを感じて来た。彼はそれを尾州家の態度からも感じて来た。しかし、どんな崩壊が先の方に待っているにもせよ、彼は一日たりとも街道の世話を怠ることはできない。同時に、この困窮疲弊からも宿場を護《まも》らねばならない。
 その時になって見ると、馬籠の宿場そのものの維持も容易ではなくなって来た。彼は伊之助その他の宿役人とも相談の上、この際、一切をぶちまけて、領主たる尾州家に宿相続救助の願書を差し出そうと決心した。
「まあ、お辞儀をしてかかるよりほかにしかたがありません。では、宿相続のお救い願いはわたしが書きましょう。宿勘定の仕訳帳《しわけちょう》は伊之助さんに頼みますよ。先ごろ名古屋の方へ行った時に、わたしはこの話を持ち出して見ました。尾州藩の人が言うには、奉行所あてに願書を出すがいい、どうせ藩でも足りない、しかし足りないついでになんとかしようじゃないか――そう言ってくれましたよ。」
 いったいなら、こんな願書は江戸の道中奉行へ差し出すべきであった。それを尾州藩の方で引き取って、届くだけは世話しようと言うところにも、時の推し移りがあらわれていた。たといこれを江戸へ持ち出して見たところで、家茂公|薨去《こうきょ》後の混雑の際では採用されそうもない。やがて大坂から公儀衆が帰東の通行も追い追いと迫って来る。急げとばかり、半蔵は宿相続お救い願いの草稿を作りにかかった。
 草稿はできた。彼はそれを隣家の伏見屋へ持って行った。本陣の家から見れば一段と高い石垣《いしがき》の位置にある明るい静かな二階で、彼はそれを伊之助と二人《ふたり》で読んで見た。
[#ここから1字下げ]
  宿相続お救い願い
    恐れながら書付をもって嘆願奉り候《そうろう》御事
「宿方《しゅくがた》の儀は、当街道筋まれなる小宿にて、お定めの人足二十五人役の儀も隣郷山口湯舟沢両村より相勤め候ほどの宿柄《しゅくがら》、外宿同様お継立《つぎた》てそのほか往還御役相勤め候儀につき、自然困窮に罷《まか》りなり、就中《なかんずく》去る天保《てんぽう》四|巳年《みどし》、同七|申年《さるどし》再度の凶年にて死亡離散等の数多くこれあり、宿役相勤めがたきありさまに罷《まか》りなり候えども、従来浅からざる御縁故をもって種々御尽力を仰ぎ、おかげにていかようにも宿相続|仕《つかまつ》り来たり候ところ、元来|嶮岨《けんそ》の瘠《や》せ地《ち》、山間わずかの田畑にて、宿内食料は近隣より買い入れ、塩、綿、油等は申すに及ばず、薪炭《まきすみ》等に至るまで残らず他村より買い入れ取り用い候儀につき、至って助成薄く、毎年借財相かさみ、難渋罷りあり候。
――往還御役の儀、役人どもはじめ、御伝馬役、歩行役、七里役相勤め、嶮岨の丁場《ちょうば》日々折り返し艱難《かんなん》辛勤仕り、冬春の雪道、凍り道等の節は、荷物|仕分《しわけ》に候わでは持ち堪《こた》えがたく、病み馬痩せ馬等も多くでき、余儀なく仕替馬《しかえうま》つかまつり候わでは相勤めがたく、右につき年々お救い米《まい》ならびに増しお救い金等下しおかれ、おかげをもって引き続き相勤め来たり候えども、近年馬買い入れ値段格外に引き揚げ、仕替馬買い入れの儀も少金にては行き届かず、かつまた、嶮岨の往還|沓草鞋《くつわらじ》等も多く踏み破り候ことゆえ、お定め賃銭のみにてはなにぶん引き足り申さず、隣宿より帰り荷物等にて雇い銭取り候儀も、下地馬《したじうま》の飼い立て不行き届きにつき、重荷は持ち堪《こた》えがたく、眼前の利益に離れ候次第、難渋言語に絶し候儀に御座候。
――農作の儀、扣《ひか》え地内《ちない》狭少につき、近隣村々へ年々運上金差し出し、草場借り受け、あるいは一里二里にも及ぶ遠方馬足も相立たざる嶮岨へ罷り越し、笹《ささ》刈り、背負い、持ち運び等仕り、ようやく田地を養い候ほどの為体《ていたらく》、お百姓どもも近村に引き比べては一層の艱苦《かんく》仕り候儀に御座候……」
[#ここで字下げ終わり]
 読みかけて半蔵は深いため息をついた。
「伊之助さん、わたしは吾家《うち》の阿爺《おやじ》から本陣問屋庄屋の三役を譲られた時、そう思いました。よくあの阿爺たちはこんなめんどうな仕事をやって来たものだと。わたしの代になって、かえって宿方の借財をふやしてしまったようなものです。これがあの阿爺でしたら、もっとよくやれたかもしれません。わたしは実にこんな経済の下手《へた》な男です。」
 その願書の中には、安政五年異国交易御免以来の諸物価が格外に騰貴したことから、同年の冬十一月、および万延元年十月の両度に村の火災のあったことも言ってある。文久元年の和宮様の御下向、同三年の尾州藩主|上洛《じょうらく》に引き続いて、諸藩の家族方が帰国、犬千代公ならびに家中衆の入国、十四代将軍が京都より還御のおりの諸役人らの通行、のみならず尾張大納言が参府と帰国等、前代未聞の大通行が数え切れない上に、昨年日光御神忌に際しては公家衆と警衛諸役人らの通行が数日にわたって、ついには助郷《すけごう》村々も疲弊を申し立て、一人一匹の人馬も差し出さないことがあり、そのたびごとに宿役人どもはじめ御伝馬役、小前のものの末に至るまで一方《ひとかた》ならぬ辛《つら》き勤めは筆紙に尽くしがたいことも言ってある。それらの事情から人馬の雇い金はおびただしく、ゆくゆく宿相続もおぼつかないところから、木曾十一宿では定助郷設置の嘆願を申し合わせ、幾たびか宿役人らの江戸出府となったが、今だにその御理解もなく、もはや十六、七年も右の一条でかわるがわるの嘆願に出府せしため雑費はかさむばかりであったことも言ってある。ついては、去る安政三年に金三百両の頼母子講《たのもしこう》を取り立て、その以前にも百両講を取り立て、それらの方法で宿方借財返済の途《みち》を立てて来たが、近年は人馬雇い金、並びに借入金利払い、その他、宿入用が莫大《ばくだい》にかかって、しかも入金の分は先年より格別増したわけでもないから、ますます困窮に迫って必至難渋の状態にあることにも言い及んである。
 半蔵はさらに読み続けた。
[#ここから1字下げ]
「――前条難渋の宿柄、実《じつ》もって嘆かわしき次第にこれあり候《そうろう》。右につき、高割《たかわり》取り集め候儀も、先年よりは多く相増し候えども、お救い拝借等年延べ願い上げ奉り候ほどのことゆえ、この上相増し候儀は行き届かず、もはや頼母子講取り立て候儀も相成りがたく、組合宿々の儀も人馬雇い立てその他多端の費用にて借財相かさみ、助力は相頼みがたき場合、いかにして宿相続|仕《つかまつ》るべきかと一同当惑悲嘆いたし候。
――この上は、前条のおもむき深く御憐察《ごれんさつ》下し置かれ、御時節柄恐れ多きお願いには候えども、御金二千両拝借仰せ付けられたく、御返上の儀も当|寅年《とらどし》より向こう二十か年賦済みにお救い拝借仰せ付けられ候わば、一同ありがたき仕合わせに存じ奉り候。以上。」
 慶応二年|寅《とら》九月[#地から7字上げ]馬籠宿
[#地から2字上げ]庄屋問屋
    御奉行所
[#ここで字下げ終わり]
 半蔵と伊之助の二人《ふたり》はこの願書について互いの意見をとりかわした。伊之助には養父金兵衛の鋭さはないが、そのかわり綿密で慎み深く、半蔵にとってのよい相談相手である。その時、伊之助は宿勘定仕訳帳を取り出して、それを半蔵の前にひろげて見せた。包み隠しない宿方やり繰りの全景がそこにある。宿方の入金としては、年内人馬賃銭の内より宿助成としての刎銭《はねせん》何ほどということから、お年貢《ねんぐ》の高割《たかわり》として取り集めの分何ほど、ずっと以前に木曾谷中に許された刎銭積み金の利息より手助け村および御伝馬その他への割り渡しを差し引きたる残り何ほど、木曾谷には古い歴史のある御切り替え手形|頂戴金《ちょうだいきん》のうち御伝馬その他の諸役への割り渡しを差し引きたる残り何ほどとそこに記《しる》してある。支払いの分としては、御用御通行そのほか込み合いの節の人馬雇い銭、御用の諸家休泊年内|旅籠《はたご》の不足銭、問屋場の帳付けと馬指《うまさし》および人足指《にんそくざし》と定使《じょうづか》いらへの給料、宿駕籠《しゅくかご》の買い入れ代、助郷人馬への配当、高札場ならびに道路の修繕費、それに問屋場の維持に要する諸雑費というふうに。七か年を平均した帳尻《ちょうじり》を見ると、入金二百三十六両三分、銭六貫三百八十一文。支払い金四百十一両三分、銭九貫六百三十三文。この差し引き、金百七十五両銭三貫二百四十二文が不足になっている。この不足が年々積もって行く上に、それを補って来た万延安政年代以来からの宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両一分二朱ほど払わねばならない。これはお役所からも神明講永代講の積み金からも、中津川の商人からも、あるいは岩村の御用達《ごようたし》からも借り入れたもので、その中には馬籠の桝田屋《ますだや》の主人や上の伏見屋の金兵衛が立て替えたものもある。このまま仕法立《しほうだ》てをせずに置いたら宿方は滅亡に及ぶかもしれない。なんとか奉行所の評議をもって宿相続をなしうるよう救ってもらいたいというのが、その帳面の内容であった。
 馬籠は小駅ながらともかくも木曾街道筋のことで金が動く。この宿場の困難な時を切り抜けるも、切り抜けないも、宿役人らの肩にかかっていた。おそらく父吉左衛門でも容易でない。まして半蔵だ。彼は伊之助と顔を見合わせて、つくづく自分の無能を羞《は》じた。


 大風の被害、木曾谷中の不作、前代未聞の米高《こめだか》、宿相続の困難、それらの心配を持ち越して、やがて馬籠の宿では十月を迎えるようになった。
 そろそろ峠の上へは冷たい雨もやって来る。その秋深い空気の中で、大坂を出立する幕府方の諸団体が木曾街道筋を下って帰途につくとの前触れも伝わって来る。その日取りは、十月の十三日から二十五日まで、およそ十三日間の大通行ということもほぼ明らかになった。
 半蔵の手伝いとして本陣へ通《かよ》って来る清助は彼のそばへ寄って言った。
「半蔵さま、宿割は。」
「今度の御通行かい。たぶん、三留野《みどの》のお泊まりで、馬籠はお昼休みになるでしょう。」
「また街道はごたごたしますね。」
 この清助ばかりでなく、十三日間の通行と聞いては問屋場に働く栄吉まで目を円《まる》くした。
 間もなく、木曾福島からの役人衆も出張して来て、諸団体休泊の割当ても始まった。本陣としての半蔵の家は言うまでもなく、隣家の伊之助方も休泊所に当てられ、金兵衛の隠宅までが福島役人衆の宿を命ぜられた。こういう中で、助郷、その他のことを案じながら、よく半蔵を見に来るのは伊之助だ。
 伊之助は思い出したように言った。
「でも、どんなものでしょうなあ、戦《いくさ》に敗《ま》けて帰って来るというやつは。」
 こんなふうで半蔵らは大坂から出立して来る公儀衆をこの街道に待ち受けた。
 はたしてさびしい幕府方の総退却だ。その月の十五日には、予定の日取りよりややおくれて、西から下向《げこう》の団体が続々と宿場に繰り込んで来た。十七日となると、人馬の継立《つぎた》てが取り込んで、宿役人仲間の心づかいも一通りでない。日によっては隣村山口、湯舟沢からの人足も不参で、馬籠の宿場では草刈りの女馬まで狩り出し、それを荷送りの役に当てた。木曾福島から出張している役人衆の中には、宿の方の混雑を心配して、夜中に馬籠から発《た》つものもある。
 この大通行は二十三日までも続いた。まだそれでもあとからあとからと繰り込んで来る隊伍《たいご》がある。この馬籠峠の上まで来て昼食の時を送って行く武家衆はほとんど戦争の話をしない。戦地の方のことも語らない。ただ、もう一度江戸を見うる日のことばかりを語り合って行った。
 ある朝、半蔵は会所の前にいた。そこへ宿方の用談をもって妻籠《つまご》の寿平次が彼を訪《たず》ねて来た。
「寿平次さん、まあおはいりなさるさ。こんなところに立っていては話もできない。役人衆もく
前へ 次へ
全44ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング