うど半蔵が寿平次と二人で会所の前にいると、そこへ隣家の伊之助も隠居|金兵衛《きんべえ》と一緒に山林の見分《けんぶん》からぽつぽつ戻って来た。
「半蔵さん、きょうはわたしも初めて家を出まして、伊之助を連れながら大荒れの跡を見てまいりましたよ。」
相変わらず金兵衛の話はこまかい。この達者《たっしゃ》な隠居に言わせると、新茶屋の林の方で調べて来た倒れ木は、落合堺《おちあいざかい》の峰から風道通《かざみちどお》りへかけて、松だけでも五百七十本の余に上る。杉、三十五、六本。大小の樅《もみ》、四十五本。栗、およそ六百本。これに大屋下の松十五本と、比丘尼寺《びくにでら》の松十五本と、青野原土手の十三本を加えると、都合総計およそ七百三十本ほどの大小の木が倒れたとのことだ。どんなすさまじい力で暴風が通り過ぎて行ったかは、この話を聞いただけでもわかる。
「まあ、ことしはわたしも七十になりますが、こんな大風は覚えもありません。そりゃ半蔵さんのお父《とっ》さんにお聞きになってもわかることです。まったく、前代未聞《ぜんだいみもん》です。」と言って、金兵衛は手にした杖《つえ》を持ち直して、「そう言えば、昨晩、万福寺の和尚《おしょう》さま(松雲のこと)も隠宅の方へお見舞いくださいました。そのおりに、墓地での倒れ木のお話も出ましてね、かねて、村方でも相談のあった位牌堂《いはいどう》の普請《ふしん》にあの材木を使いたいがどうかと言って、内々《ないない》わたしまでその御相談でした。それは至極《しごく》よろしい御量見です、そうわたしがお答えして置きましたよ。あの和尚さまは和尚さまらしいことを言われると思いましたっけ。」
「時に、半蔵さん、飯米のことはどうしたものでしょう。」と伊之助が言い出す。
「それです、妻籠の方で融通《ゆうずう》がつくかと思いましてね、今、今、そのことを寿平次さんにも頼んで見たところです。妻籠にも米がないとすると、山口はどうでしょう。」と半蔵は答える。
「山口もだめ。」と言うのは伊之助だ。「実はきのうのことですが、人をやって見ましたよ。あの村にも馬籠へ分けるほどの米はないらしい。やっぱりお断わりですさ。使いの者はむなしく帰って来ました。」
「悪い時には悪いなあ。」
それを言って、寿平次はあたりを見回した。
間もなく、寿平次は去り、金兵衛も上の伏見屋の方へ戻《もど》って行った。その時になって見ると、村方一同が米の買い入れ方を頼もうにも、宿々は凶作も同様で、他所への米の出入りは少しも叶《かな》わないとなった。馬籠の宿内でもみなみなそう持ち合わせはない。日ごろ米の売買にたずさわる金兵衛方ですら、その月かぎりの家族の飯米が三俵も不足すると言ってあわて出したくらいだ。普請好きな金兵衛は本家や隠宅に工事を始めていて、諸職人の出入りも多かったからで。
こうなると、西に盆地の広くひらけた美濃方面より米を買い入れるよりほかに馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛《よろずややすべえ》方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のように飛んだ。岩村に米があると聞いては、たとい高い値段を払っても、一時の急をしのがねばならない。そういう岩村米も売り上げて、十両につき三俵替えという値段だ。米一升、実に六百二十四文もした。
毎日のように半蔵は背戸田《せとだ》へ見回りに出た。時には宿役人一同と出入りの百姓を引き連れて、暴風雨《あらし》のために荒らされた田方《たかた》の内見分《ないけんぶん》に出かけた。半蔵が父の吉左衛門とも違い、金兵衛の方は上の伏見屋の隠宅にじっとしていない。長く精力の続くこの隠居は七十歳になっても若い者の中に混じって、半蔵や養子伊之助らが歩いて行く方へ一緒に歩いた。そして朝早くから日暮れに近いころまでかかって、東寄りの峠村中の田、塩沢、岩田、それから大戸あたりの稲作を調べに回った。翌々日も半蔵らは背戸田からはじめて、野戸の下へ出、湫《くて》の尻中道《しりなかみち》から青の原へ回り、中新田、比丘尼寺《びくにでら》、杁《いり》、それから町田を見分した。その時も金兵衛は皆と一緒に歩き回った。どうかして稲を見直したいとは、一同のもののつないでいる望みであった。その年の収穫期を凶作に終わらせたくないと願わないものはなかったのである。
また、また、西よりの谷間《たにあい》にある稲作はどうかと心にかかって、半蔵らは馬籠の町内から橋詰《はしづめ》、荒町の裏通りまで残らず見分に出かけた。中のかやから美濃境の新茶屋までも総見分を行なった。八月の半ば過ぎになると、稲穂もよほど見直したと言って、半蔵のところへ飛んで来るものもある。いかんせん、とかく村方の金子は払底で、美濃方面から輸入する当座の米は高い。難渋な小前《こまえ》の者はそのことを言いたて、宿役人へ願いの筋があるととなえて、村じゅうでの惣《そう》寄り合いを開始する。果ては、大工左官までが業を休み、町内じゅうの小前のものは阿弥陀堂《あみだどう》に詰めて、上納|御年貢米《おねんぐまい》軽減の嘆願を相談するなど、人気は日に日に穏やかでなくなって行った。
金兵衛は半蔵を見るたびに言った。
「どうも、恐ろしい世の中になって来ました。掟年貢《おきてねんぐ》の斗《はか》り立てを勘弁してもらいましょう、そんなことを言って、わたしどもへ出入りの百姓が三人もそろって談判に見えましたよ。」
そういう隠居は木曾谷での屈指な分限者《ぶげんしゃ》と言われることのために、あの桝田屋《ますだや》と自分の家とが特に小前の者から目をつけられるのは迷惑至極だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったからと言って、そんなことまでとやかくと言い立てられるのは、なおなお迷惑至極だという顔つきである。
「金兵衛さん、」と半蔵は言った。「あなたのようにあり余るほど築き上げたかたが、こんな時に一肌《ひとはだ》脱がないのはうそです。」
「いえ、ですからね、あの兼吉《かねきち》に二俵、道之助に七斗、半四郎に五俵二斗――都合、三口合わせて三石七斗は容赦すると言っているんですよ。」
金兵衛の挨拶《あいさつ》だ。
半蔵はこの人の言うことばかりを聞いていられなかった。庄屋としての彼は、どんな骨折りでもして、小前の者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行《けんぶんぶぎょう》の出張を求め、場合によっては尾州代官山村|甚兵衛《じんべえ》氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。
あいにくな雨の日がまたやって来た。もうたくさんだと思う大雨が朝から降り出して、風の方角も北から西に変わった。本陣の奥座敷では床上《ゆかうえ》がもり、袋戸棚《ふくろとだな》へも雨が落ちた。半蔵は自分の家のことよりも村方を心配して、また町内を見回るために急いでしたくした。腰に結ぶ軽袗《かるさん》の紐《ひも》もそこそこに、寛《くつろ》ぎの間《ま》から囲炉裏ばたに出て下男の佐吉を呼んだ。
「オイ、蓑《みの》と笠《かさ》だ。」
その足で半蔵は町田の向こうまで行って見た。雨にぬれた穂先は五、六分には見える。稲草《いなくさ》によっては八分通りの出来にすら見える。最初よりはよほど見直したという村の百姓たちの評判もまんざらうそでないと知った時は、思わず彼もホッとした。
十四代将軍|家茂《いえもち》の薨去《こうきょ》が大坂表の方から伝えられたのは、村ではこの凶作で騒いでいる最中である。
三
馬籠の宿場の中央にある高札場《こうさつば》のところには物見高い村の人たちが集まった。何事かと足を停《と》める奥筋行きの商人もある。馬から降りて見る旅の客もある。人々は尾州藩の方から伝達された左の掲示の前に立った。
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「公方様《くぼうさま》、御不例御座遊ばされ候《そうろう》ところ、御養生かなわせられず、去る二十日|卯《う》の上刻、大坂表において薨御《こうぎょ》遊ばされ候。かねて仰せ出《い》だされ候通り、一橋中納言殿《ひとつばしちゅうなごんどの》御相続遊ばされ、去る二十日より上様《うえさま》と称し奉るべき旨《むね》、大坂表において仰せ出だされ候。」
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日ごろこもりがちに暮らしている吉左衛門まで本陣の裏二階を出て、そこへ上の伏見屋から降りて来た老友金兵衛と共に、この掲示を読んだ。そして、二人《ふたり》ともしばらく高札場の付近を立ち去りかねていた。あだかも、享年わずかに二十一歳の若さで薨去《こうきょ》せられたという将軍を街道から遠く見送るかのように。その時はすでに鳴り物一切停止のことも触れ出された。前将軍が穏便《おんびん》の伝えられた時と同じように、この宿場では普請工事の類《たぐい》まで中止して謹慎の意を表することになった。
九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作《あきさく》見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴えるためにいずれは代官山村氏が尾州表への出府もあるべきよしの沙汰《さた》も伝えられ、小前《こまえ》のもの一同もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日として喪を発表せられたのは、御跡目《おんあとめ》相続および御葬送儀式のために必要とせられたのであって、実際には七月の十九日に脚気衝心《かっけしょうしん》の病で薨去せられたという。それまでまだ将軍家は大坂に在城で征長の指揮に当たっていたことのように、喪は秘してあったともいう。小笠原《おがさわら》老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想《おも》い当たる。
将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚《ちょくじょう》も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防|討手《うって》諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知《しらせ》すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸《いがい》は老中|稲葉美濃守《いなばみののかみ》らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知《しらせ》を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。
種々《さまざま》な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮《たいりょ》に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測《おくそく》をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯《しょうがい》と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。
「暗い、暗い。」
半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。
「武家の奉公もこれまでかと思います。」
半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情《しょうやふぜい》の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないこ
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