どうあろうか。」とまた吉左衛門が言葉を添える。「戦争の騒ぎだけでもたくさんなところへ、こないだのような大風雨《おおあらし》じゃ、まったくやり切れない。とかく騒がしいことばかりだ。半蔵も気をつけて行って来るがいいぞ。」
ちょうど隣家の年寄役伊之助も東海道の医者のもとまで養生の旅に出て帰って来ている。半蔵はこの人だけに事情を打ち明けて、留守中の宿場の世話をよく頼んで置いてある。本陣や問屋の方の手伝いには清助もあれば、栄吉というものもある。
「お母《っか》さん、お願いしますよ。」
その声を残して置いて、半蔵は佐吉と共に裏口の木戸から出た。いつも早起きの子供らですら寝床の中で、半蔵が裏の竹藪《たけやぶ》の細道のところから家を離れて行ったことも知らなかった。
二
月の末になると、半蔵は名古屋から土岐《とき》、大井を経て、二十二里ばかりの道を家の方へ引き返した。帰りには中津川で日が暮れて、あれから馬籠の村の入り口まで三里の夜道を歩いて来た。
街道も更《ふ》けて人通りもない時だ。荒町《あらまち》から馬籠の本宿につづく石屋の坂も暗い。宿場の両側に並ぶ家々の戸も閉《し》まって、それぞれの屋号をしるした門口の小障子からはわずかに燈火《あかり》がもれている。ともかくも無事に半蔵が自分の家の本陣へ帰り着いたころは、そんなにおそかった。
「子供は。」
半蔵はまずそれをお民にきいた。往《い》きと違って、彼も留守宅のことばかり心配しながら帰って来たような人だ。
「あなた、あれからお父《とっ》さんもお母《っか》さんもずっとお母屋《もや》の方にお留守居でしたよ。さっきまでお父さんも起きていらしった。あなたが帰ったら起こしてくれと言って、奥へ行って休んでおいでですよ。」
とお民は言って見せた。
寛《くつろ》ぎの間《ま》に脚絆《きゃはん》を解いた半蔵は、やっぱり名古屋まで行って来てよかったことを妻に語り始めた。そこへ継母のおまんも半蔵の話を聞きに来る。この旅には名古屋まで友人の香蔵と同行したこと、美濃尾張方面の知己にもあうことができて得《う》るところの多かったこと、そんな話の出ているところへ、吉左衛門は煙草盆《たばこぼん》をさげながら奥の部屋《へや》の方から起きて来た。
「半蔵、どうだったい。いくらか京大坂の様子がわかったかい。」
半蔵が父のところへもたらした報告によると、将軍親征の計画は幕府の大失敗であるらしい。こんな無理な軍役を起こし、戦意のない将卒を遠地に送り、莫大《ばくだい》な軍資を費やして、徳川家の前途はどうなろう。名古屋城のお留守居役で、それを言わないものはない。もはや幕府方もさんざんに見える。一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は万般後見のことでもあるから、長州征伐のことなぞはことごとく慶喜へ一任して、すみやかに将軍は関東へ引き揚げるがいい、そしてしばらく天下の変動をみるがいい、それには小倉表《こくらおもて》に碇泊《ていはく》する幕府の軍艦をもって江戸へ還御《かんぎょ》のことに決するがいい、当節天下の人心は薄い氷を踏むようなおりからである、もし陸路を還御になってはいかような混乱を促すやも測りがたい。これは主君を思う幕臣らの意向であるばかりでなく、イギリスに対抗して幕府を助けようとするフランス公使ロセスなぞも同じ意味の忠告をしたとやらで、名古屋ではもっぱらその評判が行なわれていたことを父に語り聞かせたのであった。
「して見ると、この戦いはどうなったのかい。」
「それがです。各藩共に、みんな初めから戦う気なぞはなくて出かけて行ったようです。長州を相手に決戦の覚悟で行ったような藩は、まあないと言ってもいいようです。ただ幕府への御義理で兵を出したというのが実際のところじゃありますまいか。」
「でも、半蔵、この戦いが始まってから、もう三月近くもなるよ。六度や七度の合戦はあったと、おれは聞いてるよ。」
「そりゃ、お父《とっ》さん、芸州口にもありましたし、大島方面にもありましたし、下《しも》の関《せき》の方面にもありました。それがみんな長州兵を防ぐ一方です。それから、退却、退却です。どうもおかしい、おかしいとわたしは思っていました。ほんとうに戦う気のあるものなら、一部の人数を失ったぐらいで、あんなに退却ばかりしているはずはないと思っていました。幕府方に言わせましたら、榊原小平太《さかきばらこへいた》の後裔《こうえい》だなんていばっていてもあの榊原の軍勢もだめだ、彦根《ひこね》もだめだ、赤鬼の名をとどろかした御先祖の井伊|直政《なおまさ》に恥じるがいいなんて、今じゃ味方のものを悪く言うようなありさまですからね。でも、尾州藩あたりの人たちは、そうは言いませんよ。これは内外の大勢をわきまえないんだ、ただ徳川家の過去の御威勢ばかりをみてからの言い草なんだ、そう言っていますよ。早い話が、江戸幕府のために身命をなげうとうというものがなくなって来たんですね。各藩共に、一人でも兵を損じまいというやり方で、徳川政府というよりも自分らの藩のことを考えるようになって来たんですね。」
「そう言われて見ると、助郷《すけごう》村々の百姓だっても、徳川様の御威光というだけではもう動かなくなって来てるからな。」
「まあ、名古屋の御留守居あたりじゃ、この成り行きがどうなるかと思って見ているありさまです。最初から尾州ではこんな長州征伐には反対だ、御隠居の諫《いさ》めを用いさえすれば幕府もこんな羽目《はめ》にはおちいらなかった、そう言って憤慨しないものはありません。なんでも、石州口の方じゃ、浜田の城も落ちたといううわさです。おまけに公方様《くぼうさま》は御病気のようなうわさも聞いて来ましたよ。」
吉左衛門は深いため息をついた。
ともあれ、この名古屋行きは半蔵にとって、いくらかでも彼の目をあけることに役立った。たとい、京都までは行かず、そこに全国の門人らを励ましつつある師|鉄胤《かねたね》をも見ずじまいではあっても、すくなくも西の空気の通う名古屋まで行って、尾州藩に頭を持ち上げて来ている田中|寅三郎《とらさぶろう》、丹羽淳太郎《にわじゅんたろう》の人たちを知るようになり、来たるべき時代のためにそれらの少壮有為な藩士らがせっせとしたくを始めていることを知っただけでも、彼にはこの小さな旅の意味があった。
「今夜はもうおそい。お父《とっ》さんもお母《っか》さんも休んでください。」
そう言って店座敷の方へ行ってからも、彼は名古屋で探って来たことが心にかかって、そのまま眠りにはつけなかった。
父にこそ告げなかったが、日に日に切迫して行く関西の形勢が彼を眠らせなかった。彼はそれを田宮如雲《たみやじょうん》のような勤王家に接近する尾州藩の人たちの口ぶりから知って来たばかりでなく、従来|会津《あいづ》と共に幕府を助けて来た薩摩《さつま》が公武一和から討幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の秘密であるばかりでなく、イギリスのような外国の勢力までがこれを助けているといううわさからも知って来た。王政復古を求める声は後年を待つまでもなく、前の年、慶応元年の後半期あたり、将軍辞職の真相の知れ渡る前後あたりから、すでに、すでに諸国に起こって来て、徳川家には縁故の深い尾州藩の人たちですらそれを考えるような時になって来ている。
「まあ、あなたはまだ起きてるんですか。」
お民が夜中に目をさまして、夫のそばで寝返りを打つころになっても、まだ彼は寝床の上にすわっていた――枕《まくら》もとに置いてある行燈《あんどん》が店座敷の壁に投げかけて見せる暗い影法師と二人ぎりで。
八月にはいって、馬籠峠の上へは強い雨が来た。六日から降り出した雨は夜中から雷雨に変わり、強い風も来て、荒れ模様は二日も続いた。さて、二日目の夜の五つ時ごろからは雨はさらに強く降りつづき、次第に風の方向も変わって来たところ、思いのほかな辰巳《たつみ》の大風となって、一晩じゅう吹きやまなかった。ようやく三日目の夜明けがた、およそ六つ半時ごろになって風雨共に穏やかになったころは、半蔵もお民も天井板の崩《くず》れ落ちた店座敷のなかにいた。本陣の表通りから下方《したかた》裏通りまでの高塀《たかべい》はことごとく破損した。
「まあ。」
あっけに取られたお民の声だ。
とりあえず半蔵は身軽な軽袗《かるさん》をはいて家の外へ見回りに出た。自分方では仮葺《かりぶ》きの屋根瓦《やねがわら》を百枚ほども吹き落とされたと言って、それを告げに彼のところへ走り寄るのは隣家伏見屋の年寄役伊之助だ。田畑のことは確かにもわからないが、この大荒れでは稲穂もよほど痛んだのではないかと言って、彼のそばに来てその心配を始めるのは問屋の九郎兵衛《くろべえ》だ。周囲には、大風の吹き去ったあとの街道に立って茫然《ぼうぜん》とながめたたずむものがある。互いに見舞いを言い合うものがある。そのうちにはあちこちの見回りから引き返して来て、最も破損のはなはだしかったところは村の万福寺だと言い、観音堂《かんのんどう》の屋根はころびかかり、檜木《ひのき》六本、杉《すぎ》六本、都合十二本の大木が墓地への通路で根扱《ねこ》ぎになったと言って見せるものがある。伏見屋の控え林では比丘尼寺《びくにでら》で十二本ほどの大木が吹き折られ、青野原向こうの新田《しんでん》で二十本余の松が吹き折られ、新茶屋や大屋なぞにある付近の山林の損害はちょっと見当もつかないと告げに来るものもある。
その日の夕方までには村方被害のあらましの報告が荒町方面からも峠方面からも半蔵のところに集まって来た。馬籠以東の宿では、妻籠《つまご》、三留野《みどの》両宿ともに格別の障《さわ》りはないとのうわさもあり、中津川辺も同様で、一向にそのうわさもない。ただ、隣宿|落合《おちあい》の被害は馬籠よりも大きかったということで、潰《つぶ》れ家およそ十四、五軒、それに死傷者まで出した。こんな暴風雨に襲われたことはこの地方でもめったにない。しかし強雨のしきりにやって来ることはその年ばかりでなく、前年から天候は不順つづきで、あんな雨の多い年はまれだと言ったくらいだ。半蔵の家で幕府の大目付《おおめつけ》山口|駿河《するが》を泊めた前あたりのころに、すでにその年の米穀は熟するだろうかと心配したくらいだった。
その前年の不作は町方一同の貯《たくわ》えに響いて来ている。田にある稲穂も奥手《おくて》の分はおおかた実らない。凶作の評判は早くも村民の間に立ち始めた。
「天明七年以来の飢饉《ききん》でも襲って来るんじゃないか。」
だれが言い出すともないようなその声は半蔵の胸を打った。社会は戦時の空気の中に包まれていて、内憂外患のうわさがこもごもいたるという時に、おまけにこの天災だ。
宿役人の集まる会所も荒れて、屋根|葺《ふ》き替えのために七百枚ほどの栗板《くりいた》が問屋場《といやば》のあたりに運ばれるころは、妻籠《つまご》本陣の寿平次もちょっと日帰りで半蔵親子のところへ大風の見舞いに来た。
そろそろ半蔵は村民のために飯米の不足を心配しなければならなかったのである。そこで、寿平次をつかまえて尋ねた。
「寿平次さん、君の村にはどうでしょう、米の余裕はありますまいか。」
この注文の無理なことは半蔵も承知していた。樅《もみ》、栂《つが》、椹《さわら》、欅《けやき》、栗《くり》、それから檜木《ひのき》なぞの森林の内懐《うちぶところ》に抱かれているような妻籠の方に、米の供給は望めない。妻籠から東となると、耕地はなおさら少ない。西南の日あたりを受けた傾斜の多い馬籠の地勢には竹林を見るが、木曾谷《きそだに》の奥にはその竹すら生長しないところさえもある。
その時は半蔵以外の宿役人も、いずれもじっとしていなかった。問屋九郎兵衛をはじめ、年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新七の忰《せがれ》新助、同じく梅屋五助なぞは、組頭《くみがしら》の笹屋庄助《ささやしょうすけ》と共に思い思いに奔走していた。ちょ
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