な不景気に加えて、将軍進発当時の米価は金壱両につき一斗四、五升にも上がり、窮民の騒動は実に未曾有《みぞう》の事であったとか。どうして天明《てんめい》七年の飢饉《ききん》のおりに江戸に起こった打ちこわしどころの話ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝|田町《たまち》、四谷《よつや》をはじめ、下町、本所《ほんじょ》辺を荒らし回り、横浜貿易商の家や米屋やその他富有な家を破壊して、それが七、八日にも及んだ。進発に際する諸士の動員と共に、食糧の徴発と、米穀の買い占めと、急激な物価の騰貴とが、江戸の窮民をそんなところまで追いつめたのだ。
前年五月に起こった暴動は江戸にのみとどまらない。同じ月の十四日には大坂にも打ちこわしが始まって、それらの徒党は難波《なんば》から西横堀上町へ回り、天満《てんま》東から西へ回り、米屋と酒屋と質屋を破壊して、数百人のものが捕縛された。兵庫では八日から暴動して、同じように米屋なぞを破壊した。前年の六月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗《こま》、入間《いるま》、榛沢《はんざわ》、秩父《ちちぶ》の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗《けんそう》の力で鎮圧されたほどである。
これほど窮迫した社会の空気の中で、幕府が江戸から大坂へ大軍を進めてからすでに一年あまりになる。いったん決心した将軍の辞職も、それを喜ぶ臣下の者はすくなかったために、御沙汰《ごさた》に及ばれがたしとの勅諚《ちょくじょう》を拝して、またまた思いとどまるやら、将軍家の威信もさんざんに見えて来た。大坂城まで乗り出した幕府方は進むにも進まれず、退《ひ》くにも退かれず幾度か長州藩のためにもてあそばれて、ついに開戦の火ぶたを切った。長い戦線は山陰、山陽、西海の三道にもわたった。一昨日は井伊、榊原《さかきばら》の軍勢が芸州口から広島へ退《ひ》いたとか、昨日は長州方の奇兵隊が石州《せきしゅう》口の浜田にあらわれたとか、そういうことを伝え聞く空気の中にあって、ただただ半蔵は村の人たちと共に戦時らしい心配を分《わ》かつのほかはなかった。
戦報も次第に漠《ばく》として来ている。半蔵が西から受け取る最近の聞書《ききがき》には、戦地の方の正確な消息も一向に知らせて来ない。それがひどく半蔵を不安にしている。
しばらく彼は裏二階の縁先に出て考えていたが、また親たちのいるところへ戻《もど》って来て言った。
「この節は、早飛脚の置いて行く話も当てにならなくなりました。なんですか、わたしはろくろく仕事も手につきません。一つ名古屋まで行って、西の方の様子を突きとめて来たいと思います。どうでしょう、お父《とっ》さんやお母《っか》さんにしばらくお留守居を願えますまいか。」
「まあ、待てよ、みんな寝ころんで話そうじゃないか。」とその時、吉左衛門が言い出した。「半蔵はそこへ足でも伸ばせよ。おまん、お前も横になったら、どうだい。こういう相談は寝ながらにかぎる。」
旧暦七月の晩のことで、おまんは次ぎの部屋の方へ行燈《あんどん》を持ち運び、燈火《あかり》を遠くして来て、吉左衛門のそばに腰を延ばした。他人をまぜずの親子ぎりだ。三人思い思いに横になって見ると、薄暗いところでも咄《はなし》は見える。それに、余分親しみもある。
「半蔵、」と吉左衛門は寝ながら頬杖《ほおづえ》をついて、言葉を続けた。「お前も知ってるとおり、とかく人の口はうるさいし、本陣親子のものに怠りがあると言われては、御先祖さまに対しても申しわけがない。実はこの二、三年来というもの、お前が家を捨てて出て行きゃしないかと思って、おれはそればかり心配していたよ。そりゃ、今は家なぞを顧みているような、そんな時世じゃない、そういうお前のお友だちの心持ちはおれにもわかる。でも、お前までその気になられると、だれがこの街道の世話するかと思ってさ。まあ、おれはこんな昔者だ。お前の家出ばかりを案じて来た。しかし、今夜という今夜はこんなことが言えるくらいだ。もうおれもそんなに心配ばかりしていない。お前が黙って出て行かずに、そう言って相談してくれると、おれもうれしい。」
「まあ、お父さんもああおっしゃるし、半蔵も思い立ったものなら、出かけて行って来るがいい。留守はどんなにしても、わたしたちが引き受けますよ。」とおまんも力を入れて言った。
吉左衛門がこんなに心配するのは、ただただ自分が年老いて心細いからというばかりでもない。あるいは先年のように水戸浪士を迎えたり、あるいは幕府の注意人物を家にかくして置いたりする半蔵が友だち仲間の行動は、とやかくと人の口に上るからで。この父に言わせると、中津川あたりと馬籠とでは、同じ尾州《びしゅう》領でも土地の事情が違う。木曾谷《きそだに》三十三か村には福島の役人の目が絶えず光っていることを忘れてはならない。山村の旦那《だんな》様は尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を同じくする人ではなく、むしろ徳川直属の旗本をもって自ら任じていることを忘れてはならない。往昔《むかし》、関ヶ原の戦いに東山道の先導となって徳川家に忠勤をぬきんでた山村氏の歴史を考えて見ても、それがわかる。平田|篤胤《あつたね》没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことであって、その地方の関係から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵《けいぞう》や香蔵《こうぞう》のような自由がない。どんな姿を変えた探偵《たんてい》が平田門人らの行動を注意していまいものでもない。おまけに、ここは街道だからで。
「壁にも耳のある世の中だぞ。まあ、半蔵にもよほど気をつけてもらわにゃならん。」と吉左衛門が言う。
「そんなら、あなた、こうするといい。」とおまんは思いついたように、「岩村には吾家《うち》の親類もありますからね。半蔵の留守中に、もし人が尋ねましたら、美濃《みの》の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい。」
「いや、お母《っか》さんにそう言って留守を引き受けていただけば、わたしも安心して出かけられます。」と半蔵は答えた。「わたしは黙って家を出るようなことはしません。庄屋には庄屋の道もあろうと考えますし、黙って家を飛び出して行くくらいなら、もともと何もそんなに心配することはなかったんです。」
半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった。木曾は尾州領である関係から、馬籠の本陣問屋を兼ねた彼の家は何かにつけて藩との交渉も多い。父吉左衛門は多年尾州公のお勝手元《かってもと》に尽力した縁故から、永代苗字帯刀《えいたいみょうじたいとう》を許されたり、領主に謁見することをすら許されたりしている。この便宜に加えて、藩の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》、材木奉行、作事奉行なぞは毎年街道を下って来るたびに、必ず彼の家に休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩黌《はんこう》明倫堂《めいりんどう》の学則が改正せられてからは、『靖献遺言《せいけんいげん》』のような勤王を鼓吹する書物が大いに行なわれ、山地の方に住む領民にまで時事を献白する道も開かれているくらいだ。
もともとこんなに西海の方の空が暗くならない前に、二度目の長州征伐を開始するについては最初から尾州家では反対を唱えたのであった。先年御隠居(尾張慶勝《おわりよしかつ》)が征討総督として出馬したおりに、長州方でも御隠居の捌《さば》きに服し、京都包囲の巨魁《きょかい》たる益田《ますだ》、国司《こくし》、福原|三太夫《さんだゆう》の首級を差し出し、参謀|宍戸左馬助《ししどさまのすけ》以下を萩《はぎ》城に斬《き》り、毛利大膳《もうりだいぜん》父子も萩の菩提寺《ぼだいじ》天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究はかえって長州人士を激せしめ、どんな禍乱の端緒となるまいものでもないと言い立てて、しきりに幕府の反省を促したのも尾州藩である。しかし幕府当局者はこの処置を寛大に過ぐるとし、御隠居の諫争《かんそう》にも耳を傾けず、長州の伏罪には疑惑の廉《かど》があるとして、毛利大膳父子、および三条実美《さんじょうさねとみ》以下の五卿を江戸に護送することを主張してやまなかった。死を決して幕府に当たろうとする長州主戦派の蜂起《ほうき》はその結果だ。
半蔵が狭い見聞の範囲から言っても、当時における尾州藩の位置は実に重い。再度の長防征討先手総督を任ずるよしの幕府の内諭が尾州公に下ったのを見ても、それがわかる。しかし尾州公は名も以前の茂徳《もちのり》を玄同《げんどう》と改め、家督を御隠居の実子|犬千代《いぬちよ》に譲って、すでに自分でも隠居の身分である。それは朝幕に関する根本の意見で全く御隠居と合わないことを知り、二人《ふたり》の主人が双《なら》び立つようでは一藩のためにも幸福でないと悟り、のみならず生麦《なまむぎ》償金事件で失敗してからこのかた、時勢の自己《おのれ》に非なることをみて取ったにもよる。この尾州公はなかなか長防征討を引き受けない。再征反対の御隠居に対してもそれの引き受けられるはずもなかったのだ。そこでお鉢《はち》は紀州公(徳川|茂承《もちつぐ》)の方に回った。先手総督は尾州公と紀州公との譲り合いとなった。その時の尾州公が紀伊中納言への挨拶《あいさつ》に、自分は隠居の身分で、国務には携わらず、内輪にはやむを得ざる事情もあって、とても一方の主将の任はお請けができない、今般自分が上京する主意は将軍の進発もあらせらるる時勢を傍観するに忍びないからであって、全く一己《いっこ》の微忠を尽くしたい存慮にほかならない、この上、しいて総督を命ぜられてもお請けは申し上げがたいと決心した次第である、事実自分には行き届かない、気の毒ではあるが悪《あ》しからず、ということであったのだ。この先手総督の引き受けには紀州でもよほど躊躇《ちゅうちょ》の色が見えた。先年来の大坂守備で国力もすでに尽きたと言って、十万両の軍用金を幕府に仰いだ上、ようやく出陣の将士を軍艦で和歌の浦から送り出したのは、前の年の十二月のことに当たる。
幕府の親藩でもこのとおりだ。水戸はまず疑われ、一橋は排斥せられ、尾州まで手を引いた。あだかも、十四代から続いた大身代《おおしんだい》が傾きかけて見ると、主家を思う親戚《しんせき》がかえって邪魔扱いにされて、一人《ひとり》去り、二人《ふたり》去りして行く趣に似ている。この際、どんな無理をしても一番の先鋒隊《せんぽうたい》から十六番隊までの諸隊を芸州表《げいしゅうおもて》に繰り出させ、長州はじめ幕府に離反するものを圧倒しようとするこの軍役の前途には、全く測りがたいものがあった。ただ、幕府方の勝利が疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんなむなしい声が木曾街道にまで響けて来ているのみだった。
名古屋へ向けて半蔵がたつ日の朝には、お民をはじめ下男の佐吉まで暗いうちから起きて、母屋《もや》の囲炉裏《いろり》ばたや勝手口で働いた。隣近所でまだ戸をしめて寝ているうちに早く主人をたたせたいという家のものの心づかいからで。
「大旦那《おおだんな》、お早いなし。」
と言って、佐吉の掛ける声までが早立ちの朝らしい。吉左衛門夫婦が裏の隠居所の方から半蔵を見送りに来たころは、まだそこいらは薄暗かった。
「時に、半蔵はどうする。」と吉左衛門があたりを見回した。「中津川までは佐吉に送らせるか。」
「ええ、おれがお供するわいなし。」と佐吉は心得顔に、「おれはもうそのつもりで、自分の草鞋《わらじ》までそろえて置いたで。」
「たぶん、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃《みの》方面の人たちにもあえるだろうと思います。」と半蔵は言った。
「さあ、西の方の模様も
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