ら大津経由で木曾《きそ》街道を下って来て、馬籠《まごめ》本陣の前で馬を停《と》めた一人《ひとり》の旅人がある。合羽《かっぱ》に身をつつんだ二人《ふたり》の家来と、そこへ来て荷をおろす供の男をも連れている。
この旅人は旧暦九月の半ばに昼夜兼行で江戸を発《た》つから、十月半ばに近くの木曾路の西のはずれにたどり着くまで、ほとんど歩きづめに歩き、働きづめに働いて、休息することを知らなかったような人である。薄暗い空気に包まれていた洛中《らくちゅう》の風物をあとに見て、ようやく危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から深いため息のつける場所をその山家に見つけたような人である。この旅人が山口|駿河《するが》だ。
泊まりの客人と聞いて、本陣では清助が表玄関の広い板の間に出て迎えた。客人は皆くたびれてその玄関先に着いた。笠《かさ》を脱ぎ、草鞋《わらじ》を脱ぐ客人の手つきを見たばかりでも、清助にはどういう人たちの微行であるかがすぐに読めた。
「ちょうど、よいお部屋《へや》があいております。ただいま主人は福島の方へ出張しておりますが、もう追ッつけ帰って見えるころです。こんな山の中で、なんにもおかまいはできません。どうぞごゆっくりとなすってください。」
と清助は言って、主《おも》な客人を一番奥の方の上段の間へ案内した。二人の家来には次ぎの奥の間を、供の男には表玄関に近い部屋をあてがった。
木曾では鳥屋《とや》の小鳥も捕《と》れ、茸《きのこ》の種類も多くあるころで、旅人をもてなすには最もよい季節を迎えていた。清助は奥の部屋と囲炉裏《いろり》ばたの間を往《い》ったり来たりして、二人の下女を相手に働いているお民のそばへ来てからも、風呂《ふろ》の用意から夕飯として出す客膳《きゃくぜん》の献立《こんだて》まで相談する。お平《ひら》には新芋《しんいも》に黄な柚子《ゆず》を添え、椀《わん》はしめじ茸《たけ》と豆腐の露《つゆ》にすることから、いくら山家でも花玉子に鮹《たこ》ぐらいは皿《さら》に盛り、それに木曾名物の鶫《つぐみ》の二羽も焼いて出すことまで、その辺は清助も心得たものだ。お民のそばにいる二人の子供はまためずらしい客でもあるごとに着物を着かえさせられるのを楽しみにした。その中でも、姉のお粂《くめ》はすでに十歳にもなる。奥の方で客の呼ぶ声でもすると、耳さとくそれをききつけて、清助や下女に知らせるのもこの娘だ。
「お手が鳴りますよ。」
本陣ではこの調子だ。
その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻《のじり》泊まりで村へ帰って来た。家に泊まり客のあることも彼はその時に知った。諸大名や諸公役が通行のたびに休泊の室《へや》にあててある奥の上段の間には、幕府の大目付で外交奉行を兼ねた人が微行の姿でやって来ていて、山家の酒をあつらえるなぞの旅らしい時を送っていることをも知った。
翌朝になって見ると、客人はなかなか起きない。暁から降り出した雨が客人のからだから疲労を引き出したかして、ようやく昼近くなって、上段の間の雨戸を繰らせる音がする。家来の衆までがっかりした顔つきで、雨を冒しても予定の宿へ出発するような様子がない。半蔵が挨拶《あいさつ》に行って見たころは、駿河《するが》は上段の間から薄縁《うすべり》の敷いてある廊下に出て、部屋《へや》の柱に倚《よ》りかかりながら坪庭《つぼにわ》へ来る雨を見ていた。石を載せた板屋根、色づいた葉の残った柿《かき》の梢《こずえ》なぞの木曾路らしいものは、その北側の廊下の位置からは望まれないまでも、たましいを落ち着けるによいような奥まった静かさはその部屋の内にも外にもある。
「だいぶごゆっくりでございますな。今日は御逗留《ごとうりゅう》のおつもりでいらっしゃいますか。」
「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく疲れが出ましたよ。このお天気じゃ出かける気にもなれません。しかし、木曾へはいって雨に降りこめられるのも悪くありませんね。」
「ことしは雨の多い年でして、閏《うるう》の五月あたりから毎日よく降りました。当年のように強雨《ごうう》の来たことは古老も覚えがない、そんなことを申しまして、一時はかなり心配したくらいでした。川留め、川留めで、旅のかたが御逗留になることは、この地方ではめずらしいことでもございません。」
午後にも半蔵はこの客人を見に来た。雨の日の薄暗い光線は、その白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上にさして来ている。そこは彦根《ひこね》の城主|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》も近江から江戸への往《ゆ》き還《かえ》りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のために寝泊まりして行った部屋である。この半蔵の話が、外交条約のことに縁故の深い駿河の心をひいた。
「御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷《じょうい》の問題も今に全くなくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい。」
駿河はそれを半蔵に言って見せて、両手を後方に組み合わせながら、あちこちとその部屋の内を静かに歩き回った。あだかもそこの壁や柱にむかって話しかけでもするかのように……
大目付で外国奉行を兼ねた人の口からもれて来たことは、何がなしに半蔵の胸に迫った。彼はまだ将軍辞職の真相も知らず、それを説き勧めた人が自分の目の前にいるとも知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の末の代に、どうかしてそれをささえられるだけささえようとしているような、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと想《おも》って見た。
深い秋雨はなかなかやみそうもない。大目付に随《つ》いて来た家来の衆はいずれもひどく疲れが出たというふうで、部屋の片すみに高いびきだ。半蔵は清助を相手に村方の用事なぞを済まして置いて、また客人を上段の間に見に行こうとした。心にかかる京大坂の方の様子も聞きたくて、北側の廊下を回って行って見た。思いがけなくも、彼はその隠れた部屋の内に、激しくすすり泣く客人を見つけた。
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第十二章
一
「お父《とっ》さんは。」
一日の勤めを終わって庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》を脱いだ半蔵は、父|吉左衛門《きちざえもん》のことを妻のお民にたずねた。
「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ。お父《とっ》さんやお母《っか》さんにもよく頼んで行く――なんだか西の方のことが心配になって来た。」
とまた彼は言って妻の顔を見た。半蔵夫婦の間にはお夏《なつ》という女の子も生まれたが、わずか六十日ばかりでその四番目の子供は亡《な》くなったころだ。お民の顔色もまだ青ざめている。
馬籠の宿場では慶応二年の七月を迎えている。毎年上り下りの大名がおびただしい人数を見る盆前の季節になっても、通行はまれだ。わずかに野尻《のじり》泊まり、落合泊まりで上京する信州|小諸《こもろ》城主牧野|遠江守《とおとうみのかみ》の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷《とよかわいなり》から秋葉山へかけての参詣《さんけい》を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は東海道筋にも至って寂《さみ》しかったという。人馬共に通行は一向になかったともいう。街道もひっそりとしていた。
「半蔵、長州征伐のことはどうなったい。」
夕方から半蔵が父の隠居する裏二階の方へのぼって行って見ると、吉左衛門はまずそれを半蔵にきいた。物情騒然とも言うべき時局のことは、半蔵ばかりでなく、年老いた吉左衛門の心をも静かにしては置かなかった。
父が住む裏二階には、座敷先のような仮廂《かりびさし》こそ掛けてないが、二間ある部屋《へや》の襖《ふすま》も取りはずして、きびしい残暑も身にしみるというふうに、そこいらは風通しよく片づけてある。一日|母屋《もや》の方に働いていた継母のおまんも、父のそばに戻《もど》って来ている。父は先代の隠居半六が余生を送ったこの同じ部屋にすわって、相手のおまんに肩なぞをもませながら、六十八年の街道生活を思い出しているような人である。
「西の方の様子はどうかね。」とおまんまでが父の背後《うしろ》にいてそれを半蔵にたずねた。
「なんですか、こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり本当のことがわかりません。小倉《こくら》方面に戦争のあったことまではよくわかってますがね、あれから以後は確かな聞書《ききがき》も手に入りません。幕府方の勝利は疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんな雲をつかむようなことばかりです。」と半蔵が答える。
「まあ、しかしおれは隠居の身だ。」と吉左衛門は言った。「きょうは佐吉を連れて、墓|掃除《そうじ》に行って来たよ。もう盆も近いからな。」
吉左衛門とおまんとは、新たに子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜《うり》も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところへ馬買いに行ったものから土産《みやげ》にと贈られた桃も亡《な》き孫娘(お夏)の霊前に供えようとか、そんな老夫婦らしい心づかいをしている。万福寺での墓掃除からくたびれて帰ったという父を見ると、半蔵も名古屋行きのことをすぐにそこへ切り出しかねた。
「お母《っか》さん――どれ、わたしが一つかわりましょう。」
と彼はおまんに言って、父の背後《うしろ》の方へ立って行こうとした。
「や、半蔵も按摩《あんま》さんをやってくれるか。肩はもうたくさんだぞ。そんなら、足を頼もう。」
吉左衛門はとかく不自由でいる右の足を半蔵の前に投げ出して見せた。中風を煩《わずら》ったあげくの痕跡《こんせき》がまだそこに残っている。馬籠の駅長時代には百里の道を平気で踏んだほどの健脚とも思われないような、変わり果てた父の脹脛《ふくらはぎ》が、その時半蔵の手に触れた。かつて隆起した筋肉の勁《つよ》さなぞは探《さが》したくもない。膝《ひざ》から足の甲へかけての骨もとがって来ている。
「まあ、お父《とっ》さんはこんな冷たい足をしているんですか。」
半蔵は話し話し、温暖《あたた》かい血の気が感じられるまで根気に父の足をなでさすっていた。先年、彼が父の病を祷《いの》るために御嶽山《おんたけさん》の方へ出かけたころから見ると、父も次第に健康を回復したが、しかしめっきり老い衰えて来たことは争えない。父ももはやそんなに長くこの世に生きている人ではなかろう。手から伝わって来るその感覚が彼をかなしませた。
「半蔵、街道の方に声がするぞ。」と吉左衛門はきき耳を立てて言った。「また早飛脚かと思うと、おれのような年寄りにもあの声は耳についてしまったよ。」
その時、半蔵は父のそばを離れて、「またか」というふうにその裏二階の縁先の位置から街道の空をうかがった。以前、京都からのがれて来た時の暮田正香《くれたまさか》を隠したこともある土蔵の壁には淡い月がさして来ていて、庭に植えてある柿《かき》の梢《こずえ》も暗い。峠の上の空を急ぐ早い雲脚《くもあし》までがなんとなく彼の心にかかった。
最初、今度の軍役に使用される人馬は慶安度《けいあんど》軍役の半減という幕府の命令ではあったが、それでも前年の五月に将軍が進発された時の導従《どうじゅう》はおびただしい数に上り、五百石以上の諸士は予備の雇い人馬まで使用することを許されたほどで、沿道人民がこうむる難儀も一通りでなかった。そうでなくてさえ、困窮疲労の声は諸国に満ちて来た。江戸の方を見ると、参覲交代廃止以来の深刻
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