に乗り移った。兵庫行きを急ぐ彼は船長を催促して、さかんに石炭を焚《た》かせた。その時、川口の方面から船印《ふなじるし》の旗を立てて進んで来る一|艘《そう》の川船が彼の目に映った。彼はその船の赤い色で長官を乗せて来たことを知った。近づいて見ると、彼が心待ちにした小笠原壱岐ではなくて、松平伯耆であった。この人は温厚淡泊な君子ではあるが、外国応接の事件を担当すべき人柄でない。これは、と思っている彼の方へその赤い川船はこぎ寄せて来た。間もなく松平伯耆は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、万事はよろしく君らの方で談判ありたいとのきわめてあっさりとした挨拶《あいさつ》だ。なんら苦慮の様子もないには、駿河も左京と顔を見合わせた。
そこへ大きな外国船だ。やがて一人《ひとり》の西洋人を乗せたボオトが親船からこぎ離れて、波に揺られながらこちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日の来たことを告げ、日本執政の来るのを待ちあぐんだことを告げ、各国の船艦は蒸汽を焚《た》いてここに来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を待ちわびていた。
談判はまず英船内で開始された。初対面のこととて、駿河が姓名職掌を紹介すると、英国公使パアクスは不審を打って松平老中に言った。
「本日は約束の期日であるのに、阿部豊後《あべぶんご》はどうして見えないのか。」
「阿部豊後でござるか。先日職を罷《や》められたによって。」
「小笠原壱岐はどうしたか。」
「これは病気でござるで。」
「松平|周防《すおう》は。」
「はて、松平周防は機務に多忙で、なかなかこの席へはお越しになれない。」
それを聞くと、公使は冷笑して、結局の談判に旧識の人たちは皆来ない、初対面の貴下が来臨あるとははなはだその意を得ないと言い出す。松平伯耆はそんなことに頓着《とんちゃく》なしで、右手に勅書をささげて、公使の前でそれを読み上げた。その時、書記官シイボルトがそばにいて、勅書の字句を駿河に質問し、それを一々公使に通じた。パアクスはたちまち顔色を火のように変え、拳《こぶし》を揚げて卓をたたくやら、椅子《いす》を離れて大股《おおまた》に歩き回るやらしたあとで、口から沫《あわ》を飛ばして言うことには、条約許容とは何事であるか、大英国と日本とは前年すでに結んだのを知らないのか、兵庫開港をやめるとは条約にそむく、勅書と言って貴重にされるからは徳川将軍よりもさらに権の重い者である、しからば直ちにその権の重い者について談判するであろう、もはや貴下らと談判する必要がない、すみやかに日本の国権を有するところへ案内せられよ、かつまた真に日本皇帝の書であるならその印璽《いんじ》が押してなければならない、それさえない一片の紙をどうして外国のものが信ずることができるか、君らは自分を瞞着《まんちゃく》するために来たのであろう、自分はこれから艦長に言い付けてすぐさま京都に行くであろう、貴下らはよろしく同行するがよいと。
何を言われても泰然と構え込んで苦笑《にがわら》いしている松平伯耆と、パアクスとがそれに対《むか》い合っていた。それにこの二人《ふたり》は言葉も通じない。鼻息の荒いパアクスはもはや幕府の外交手段に欺かれないという顔つきで、今にもその勅書を引き裂きそうにするので、駿河はあわてて公使を押し止め、にわかに兵庫の港を開きがたいこの国の事情を述べ、この勅書は元来天皇から将軍に授けられたので君らへそのまま示すべき性質のものでないが、それをありのまま示すのは懇信の意を表するからであると言って、印璽《いんじ》のない場合に旧例のあることをも説明した。もはや日暮れにも近い、仏国公使も待っていることだろうから、同公使の意見をも聞いた上で、また貴艦を訪《たず》ねようと言い添えると、パアクスもやや気色を和らげた。そこで一行は英国公使らにわかれて、フランス船の方へ行った。
仏国公使ロセスと駿河とはすでに江戸の方で幾たびか相往来している間柄である。横須賀《よこすか》造船所の経営に、陸軍の伝習に、フランス語学所の開設に、海外留学生の派遣に、ロセスが幕府に忠告したり種々《さまざま》な助力を与えたりしたことは一度や二度にとどまらない。それに、書記官のメルメット・カションが以前|函館《はこだて》の方にあったころ、函館奉行|津田近江《つだおうみ》の世話により駿河の友人喜多村|瑞見《ずいけん》から邦語を伝えられたという縁故もあって、駿河の方でも応対に心やすい。この公使と書記官とが駿河らから英国側の態度をきき取った時は、さすがに少しも驚かなかった。ただフランス人の癖らしく両手をひろげて、肩をゆすって見せたばかりだ。
のみならず、ロセスはせっかく勅書まで持参した幕府側の苦心を知るだけの思いやりもあって、この際どうすればいいかという方法まで松平老中に教えた。それには、老中連名の書面をすみやかに渡してもらいたい。その文意はカションの通訳で大体駿河からきいたように、国事多端の際であるからこの地では事を尽くせない、兵庫開港の事も将軍においては承諾している、これらはことごとく江戸にある水野|和泉守《いずみのかみ》に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろうとの趣に認《したた》めてもらいたい。自分はその書面を証拠として、今夜各国公使へ説諭し、明日はすみやかに退帆するように取り計らうことにする。そうすれば目下の急を救うこともできよう。これが仏国公使の意見であった。
「さて、これはどうしたものであろう。拙者|一人《ひとり》ならすぐにもこの書面は認《したた》められる。同僚連署ということであれば、一応その人たちに相談した上でないと渡されない。はて、困ったことになったわい。」
松平伯耆は順動丸に帰ってからそれを言った。
夜はすでに八つ時を過ぎた。それから京都に往復して相談なぞをしていると、翌日の間に合わない。一行にとってこれは見のがせない機会でもあった。もし翌日になって、各国の船艦が大坂まで動き、淀川をさかのぼって京都に行くようなことが起こったら、人心も動揺する憂いがあった。駿河はそのことを松平伯耆に言って、今は一刻もむなしく過せない、仏国公使の厚意をむなしくしたらあとになって臍《ほぞ》をかんでも追いつかない、これは大事の前の小事である、老中連署が不承知とあれば御一存で処置せられたい、付き添いの任はまっぴら御免をこうむると述べた。松平老中もしかたなしに、然らば好《よ》きように取り計らえ、後日同僚に不平があっても自分の罪ではないと言う。駿河は甘んじてその責めを受けた。書面は同行の祐筆《ゆうひつ》が認《したた》めた。老中松平伯耆守、同じく松平周防守、同じく小笠原壱岐守の名が書かれた。みんなが暗記する花押《かおう》までその紙の上に記《しる》された。
この老中連署の書面が仏国公使の手を通して、英船へも、米蘭両船へも持ち運ばれたころは、夜も深かった。駿河がひとり仏国船に出かけて行ってその返事を待っていると、やがてそこにロセスがやって来て、
「トレ、ビヤン――トレ、ビヤン。」
と述べる。意《こころ》は、万事満足な結果に終了したとの意味を通わせたのだ。その時、公使は駿河と共に甲板《かんぱん》の上に立って深夜の海上をながめながら、自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の尽力をも頼むと付け添えた。別れぎわに、ロセスは堅く堅く駿河の手を握った。
老中松平伯耆は帰りのおそい駿河を順動丸の方に待っていた。駿河がこの談判の結果をもたらした時にも、老中はまだ半信半疑でいた。
「駿河、あすは必ず退帆いたすであろうか。」
「それは御心配に及びません。あのロセスが保証しております。もはや御安心でございます。」
「しからば、そちはここに逗留《とうりゅう》いたせ。各国の船が退帆するのを見届けた上で、京都の方へまいることにいたせ。大君さまへも老中一同へもよく申し上げるがいいぞ。」
こんなことで、駿河はその夜のうちに大坂へ向けて帰って行く松平老中を見送った。陸へ上がってからの彼は、監察の左京と二人で兵庫の旅籠屋《はたごや》にいて、不安な時を送りつづけた。翌朝も二人で首を長くして各国船の出帆を待っていると、夜が明けないうちから諸藩の侍が続々と旅籠屋へ押しかけて来た。各国船がゆえなく退帆するのはどういう理由であるかの、前日松平伯耆が談判の模様はいかがであったの、ほとんどこの交渉を信じられないかのような詰問だ。各国船の退帆は約束の時よりおくれた。ようやく九日の朝になって、退去を告げる汽笛の音が各国の船から起こった。その音は兵庫開港の遠くないことを期するかのように、高く港の空に響き渡った。
山口駿河が赤松左京と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時《たそがれどき》に近い。例の御用部屋に行って老中に面謁し一切の顛末《てんまつ》を述べようとすると、そこにはまた思いがけないことがこの駿河を待っていた。
「駿河、そちは今少しで切腹を仰せ出されるところであったぞ。」
上座にある慶喜が微笑を見せながらの挨拶《あいさつ》だ。
駿河が驚いてその理由を尋ねようとすると、老中小笠原壱岐は別室へ彼を招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接をしたとのうわさが立ったと語り聞かせ、そのために各公使は異議なく退帆したが、彼の罪は大逆無道にも相当する、直ちに切腹を命ずるがいいと奏上するものがあって、朝廷でも今少しでそれをお許しになるところであったと語り聞かせた。しかし、将軍と一橋公とは、さすがにそんな軽はずみを戒められ、小笠原壱岐もまた親しく本人の言うことを聞き、松平伯耆の言うことも聞かなければ容易に当事者を罪すべきでないと陳述したという話もあった。ちょうど松平伯耆からの来状を得て、ほぼ談判の模様も知れたから、もはや深く憂いるにも及ぶまいとの話もあった。
「しかし、御同列のお名前を拝借いたしまして、連署で書面を送りましたことは、専断と申されても一言もございません。こればかりは恐縮に存じます。」
と言って駿河はそこへ手をついた。臨機の処置を執るまでの談判の模様をも語った。
「いや危急の場合だ。それくらいの事を決断するのは至極もっともな話だ。」
小笠原老中は同情のある語気でそれを言った。さらに声を低くして、駿河が京都に滞在するのははなはだ危《あぶ》ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方へ行って閉門謹慎するがいい、あとの事は自分がこの地においてなんとか取り繕おう、周旋もしようと言い聞かせた。
この小笠原老中の言葉にやや安心して、駿河はそこをすべり出た。監察|向山《むこうやま》栄五郎のことが彼の胸に浮かんだ。せめて栄五郎だけにはあい、今度の事から後日の処置を話して行きたいと思って、そばにいる人に尋ねると、栄五郎は過ぐる日すでに罪を得て旅籠屋《はたごや》に閉居する身であるとの返事であった。
夕闇《ゆうやみ》が迫って来た。城内の廊下も薄暗い。その時、蓬髪《ほうはつ》で急ぎ足に向こうから廊下を踏んで来るものがある。その人こそ軍艦奉行、兼外務取り扱いとして、江戸から駆けつけて来た彼の友人だ。監察の喜多村瑞見だ。駿河は友人を物の陰に招いたが、こまかい話なぞする時がない。ただ、時事はまたいかんともしようがない、友人が自分に代わって努力してくれるように、とのわずかなことだけが言えた。
「あとの事はよろしく頼む。」
その言葉を瑞見に残して置いて、そこそこに駿河は二条城を出た。彼は大坂からその城に移って来ている知人らに別れを告げる暇《いとま》をすら持たなかった。
五
京都か
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