中|阿部豊後《あべぶんご》と共に翔鶴丸《しょうかくまる》という船に乗って、兵庫にある英仏米蘭四国公使に面接した。阿部老中はこれくらいのことが大事件かという顔つきの人で、万事ひとりのみ込みに開港事件を担任して、決答の日限を来たる二十九日まで延期するという約束で帰った。時に大坂へは切迫した形勢を案じ顔な京都守衛の会津藩士が続々と下って来た。駿河らをつかまえて言うには、各国公使は軍艦を率いて来て、開港を要求している、これはいわゆる城下の盟《ちかい》であって、これほど大きな恥辱はない、もし万一ますます乱暴をきわめて上京でもする様子があったら弊藩は一同死力を尽くして拒もう、淀《よど》鳥羽《とば》から上は一歩も踏ませまい、いささかもその辺に掛念《けねん》なく押し切って充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩《さつまはん》の大久保市蔵《おおくぼいちぞう》からも幕府への建言があって、これは人心の向背《こうはい》にもかかわり、莫大《ばくだい》な後難もこの一挙にある、公使らの意見にのみ動かされぬよう至急諸侯を召してその建言をきかれたい、そのために日数がかかって万一先方から軽はずみな振る舞いに出るようなことがあったら、ただいま弊邸は人少なではあるが、かねがね修理太夫大隅守《しゅりだゆうおおすみのかみ》の申し付けて置いた趣もあるから、その際は先鋒《せんぽう》を承って死力を尽くしたいと申し出た。
十月にはいって、阿部豊後《あべぶんご》、松前伊豆《まつまえいず》両閣老免職の御沙汰《ごさた》が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮《えいりょ》により官位を召し上げられ、かつ国元へ謹慎を命ずるとあって、関白がその御沙汰をうけたと認《したた》めてある。大坂城中のものは皆顔色を失い、びっくり仰天《ぎょうてん》して叡慮のいずれにあるやを知らない。将軍|家茂《いえもち》も大いに驚いて、尾州紀州の両公をはじめ老中、若年寄から、大目付、勘定奉行、目付の諸役を御用部屋《ごようべや》(内閣)に呼び集め、いわゆる御前会議を開いた。にわかな大評定《だいひょうじょう》があった。この外国関係の危機にあたり、その事を担当する二人《ふたり》の閣老の官位を召し上げ、かつ謹慎を命ずるとは何か。朝廷は四国公使との交渉に何の相談もない幕府の専断を強くとがめられたのである。しかも、老中をば朝廷より免職するというは全く前例のないことであった。いろいろな議論が出て、一座は鼎《かなえ》の沸くがごとくである。その時、山口|駿河《するが》は監察(目付)の向山栄五郎《むこうやまえいごろう》(黄村)と共に進み出て、将軍が臣下のことは黜陟《ちゅっちょく》褒貶《ほうへん》共に将軍の手にあるべきものと存ずる、しかるに、今朝廷からこの指令のあるのは将軍の権を奪うにもひとしい、将権がひとたび奪われたら天下の政事《まつりごと》はなしがたい、ただいま内外多端の際に喙《くちばし》を容《い》れてその主任の人を廃するのは将軍をして職掌を尽くさしめないのである、上は帝《みかど》の知遇を辱《はず》かしめ下は万民の希望にそむき祖先へ対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿《きしゅん》あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げた。これにはだれも服さない。激しい声は席に満ちて来た。その時の家茂の言葉に、両人ともよく言った、その意見は至極《しごく》自分の意に適《かな》った、自分は弱年の身でこの大任を受け継いだとは言うものの、不幸にして内外多事な時にあたり、禍乱はしずめ得ず、人心は統御し得ず今また半途にして股肱《ここう》の臣までも罷《や》めさせられることになった、畢竟《ひっきょう》これは不才のいたすところで、所詮《しょせん》自分の力で太平を保つことはおぼつかない。いさぎよく位を避けて隠退しよう、一橋慶喜をあげて朝廷の命をきこう、ついては謹《つつし》んで叡旨《えいし》を奉じ豊後伊豆両人の登城は差し止めるがいい、それを言って将軍が奥へはいった時は、すすり泣く諸臣の声がそこにもここにも起こった。
実に、徳川氏の運命は驚かれるほどの勢いをもってこの時に急転した。間もなく将軍の辞職となった。上疏《じょうそ》の草稿は向山栄五郎が作った。年若な将軍はまだようやく二十歳にしかならない。その上疏も栄五郎の書いたのを透き写しにされ、親《みずか》ら署名して、それを尾州公(徳川|茂徳《しげのり》、当時|玄同《げんどう》と改名)に託された。なお、その上疏には諸有司相談の上で、一通の別紙を添え、開港のやみがたいことを述べ、征夷《せいい》大将軍の職を賭《か》けても勅許を争おうとする幕府の目的を明らかにした。
しかし、その時になって見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようとする日にあたり、慶喜は飽くまで公武一和の道を守り、勅命を仰ぐの必要を主張し、断然として幕府を制《おさ》える態度に出たからである。かつて安政大獄を引き起こしたほどの幕府内部の暗闘――神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれたそれらの根深い党争は、長くその時まで続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州|慶福《よしとみ》擁立者たちに異ならなかった。老中らは慶喜の態度をもって、ことさらに幕府をくるしめるものとした。日ごろの慶喜排斥の声がその時ほど深刻な形をとってあらわれて来たこともなかった。幕府は老中|罷免《ひめん》に対する反抗の意志を上疏《じょうそ》の手段に表白したばかりでなく、その鋒先《ほこさき》を「永々《ながなが》在京、事務にも通じた」というところの慶喜に向けた。そして、将軍家茂に勧めて、慶喜に政務を譲りたい旨《むね》、諸事家茂の時のように御委任ありたい旨、その御沙汰《ごさた》を慶喜へ賜わるように朝廷に願い出た。
将軍はすでに伏見《ふしみ》に移った。大坂城を去る日、扈従《こじゅう》の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆おどろいて顔色を失い、相顧みて言葉を出すものもない。その時、講武所生徒の銃隊長と同じ刀鎗《とうそう》隊長とが相談の上、各隊の頭取《とうどり》を集めて演説し、銃隊は先発のことに、刀鎗隊は将軍警備のことに心得よと伝えたところ、銃隊は早速《さっそく》その命令に服したが、刀鎗隊はなかなか服従しないで各自の意見を述べるなど、一時は悲壮な混雑の光景を呈した。その中には一言も発しないで、涙をのみながら始終|謹《つつし》んで命をきいていた隊士もあったという。
一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館《やかた》に急いだ。将軍に面謁して、その決意をひるがえさせることを努めた。上疏を奉ったのみで、直ちに帰東せらるるはよろしくない、しかも帝《みかど》と将軍とは義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひともしばらく思いとどまって進退完全の処置なくてはかなわぬ場合である、慶喜らはそれを言って、固く執ってやまなかった。この辞職譲位は幕府の老中らも心から願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山栄五郎も、上疏の草稿が彼の手に成ったというかどで深く朝廷から憎まれたと見え、それとなく忌避の御沙汰があった。三日を出ないうちに、これも職を奪われ、家に禁錮《きんこ》を命ぜられた。
これらの報知《しらせ》が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院《てんしょういん》、和宮様《かずのみやさま》をはじめ、大奥にある婦人たちの嘆きは一通りでなかったとか。中には慟哭《どうこく》して、井戸に身を投げようとしたものがあり、自害しようとするものさえあったという。
慶応元年十月五日はこの国の歴史に記念すべき日である。一橋慶喜をはじめ、小笠原壱岐守《おがさわらいきのかみ》、松平越中守《まつだいらえっちゅうのかみ》、松平肥後守が連署して、外国条約の勅許を奏請したのも、その日である。その前夜には、この大きな問題について意見を求めるために、諸藩の藩士が御所に召された。三十六人のものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、二人は久留米《くるめ》から、一人は因州から、一人は福岡《ふくおか》から、一人は金沢から、一人は柳川《やながわ》から、二人は津《つ》から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の進退と外国条約の問題とが諸藩の藩主でなしに、その重立った家来によって議せらるるようになったとは、そこにも時勢の推し移りを語っていた。井伊大老の時代以来、幾たびか幕府で懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭《か》けるところまで行って、ようやくその許しが出た。長い鎖国の解かれる日も近づいた。
山口|駿河《するが》は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平|伯耆《ほうき》と城代《じょうだい》牧野越中《まきのえっちゅう》とがある。その他は町奉行、および武官の番頭《ばんがしら》ばかりだ。駿河は外国応接の用務のためにそこに残っていたが、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、老中|阿部《あべ》が退職の後はだれが外交の担任であるやも知らなかったくらいだ。
十月六日のこと。駿河は心配のあまり、監察の赤松左京《あかまつさきょう》とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。
暁に発《た》って淀川《よどがわ》をさかのぼり、淀の駅まで行った。そこいらの茶店ではまだ戸が閉《し》まっている。それをたたき起こして、酒をもとめ、粥《かゆ》を炊《た》かせなぞして、しばらくそこにからだを温《あたた》めていると、騎馬で急いで来る別手組《べつてぐみ》のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚《ちょくじょう》を持参したのだ。その時、はじめて駿河は外国条約の勅許が出たことを知り、前の夜に禁中では大評定のあったことをも知った。多くの公卿《くげ》たちの中には今だに鎖港攘夷《さこうじょうい》を主張するものもあったが、ようやくのことで意見の一致を見たとの話も出た。なお、詳細のことは老中松平|伯耆《ほうき》から外国公使へ談判に及べとの話も出た。その勅書には条約は確かにお許しになったから適当の処置をするがいいとはあっても、これまでの条約面には不都合なかどもあるから、新たに取り調べて、諸藩衆議の上でお取りきめに相成るべき事との御沙汰である。「兵庫港の儀は止められ候《そうろう》事」ともある。駿河は驚いて、使者の松浦を見た。この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にでも立ちいたったら、談判はさておき、殺気立った会津藩士らが何をしでかさないとも限らない、のみならず応接の主任が松平伯耆ではこの事のまとまる見込みがない、もっと外交の事務に通じた人物がありながらこんな取り計らいはいかにも心得がたい、それを駿河が言い出すと、相手の松浦は迷惑がって、自分はただ使いに来たものである、君の議論を聞きに来たものではないと。これには駿河も笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなんとか尽力しよう、なるべくはこの談判主任として小笠原壱岐《おがさわらいき》をわずらわしたい、その約束で松浦に別れた。彼はその足で大坂へ帰るために、別手組の馬をも借りることにした。
その日の午後には、駿河は監察赤松左京を伴い天保山沖に碇泊《ていはく》する順動丸
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