も追い追いと御為筋《おためすじ》を取り計らってもらった上で、今また右のような用途を引き受けるよう仰せ出されるのは深く気の毒な次第であるが、余儀なき御趣意を恐察して一同御国威のためと心得るようとの意味が書いてあった。
当時、木曾福島の代官山村氏は各庄屋を鎗《やり》の間《ま》に呼び集めた。三役所の役人立ち会いの上で、名古屋からの二通の回状を庄屋たちに示し、なおその趣意を徹底させるため代官自身に認《したた》めたものをも読み聞かせ、正月十五日までに各自めいめいの献納高を書付にして調べて出すように、とのことであったのだ。
半蔵が福島の役所へ持参したのは、その年の五月までかかってどうにかこの献金を取りまとめたものだ。それでも木曾谷全体では、二十二か村の在方で三百十四両の余をつくり、十一宿で三百両をつくり、都合六百十四両の余を献納することができた。そして馬籠の宿方から山口、湯舟沢の近村まで、これで一同ようやく重荷をおろすこともできようと考えながら、彼は宿役人の集まる馬籠の会所まで帰って来て見た。
「また、長州征伐だそうですよ。」
隣家の年寄役伊之助がそのことを半蔵にささやいた。
「半蔵さん、今度は公方様《くぼうさま》の御進発だそうですよ。」
とまた伊之助が言って見せた。
「わたしもそのうわさは聞いて来ました。いよいよ事実でしょうか。まったく、これじゃ地方の人民は息がつけませんね。」
と言って半蔵は嘆息した。
街道も多忙な時であった。なんとなく雲行きの急なことを思わせるような公儀の役人衆の通行が続きに続いた。時には、三|挺《ちょう》の早駕籠《はやかご》が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時《どき》過ぎまでも続いた。
長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣《まぐさ》と、百石ずつの糠《ぬか》と、十二石ずつの大豆を備えよとの布告が出た。普請役、および小人目付《こびとめつけ》は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられ、西の山陽道方面ではそのために助郷《すけごう》の課役を免ぜられた。
この将軍の進発には諸藩でも異論を唱えるものが続出した。越前家《えちぜんけ》でも備前家《びぜんけ》でも黙ってみている場合でないとして、不賛成を意味する建白書《けんぱくしょ》を幕府に提出した。それを約《つづ》めて言えば、旧冬尾州の御隠居を総督として長州兵が京都包囲の責めを問うた時、長州藩でもその罪に伏し、罪魁《ざいかい》の老臣と参謀の家臣らを処刑して謹慎の意を表したことで、この上は大膳《だいぜん》父子をはじめ長防二州の処置を適当に裁決あることと心得ていたところ、またまた将軍の進発と聞いては天下の人心は愕然《がくぜん》たるのほかはないというにある。幸いに最初の長州征伐は戦争にも及ばずに済み、朝野《ちょうや》ともようやく安堵《あんど》の思いをしたところ、またまた大兵を動かすとあっては諸大名の困窮、万民の怨嗟《えんさ》はまことに一方《ひとかた》ならないことで、この上どんな不測な変が生じないとも計りがたいというにある。軽々しく事を挙《あ》げるのは慎まねばならない、天下の乱階《らんかい》となることは畏《おそ》れねばならない、今度仰せ出されたところによると大膳父子に悔悟の様子もなくその上に容易ならぬ企てが台聴《たいちょう》に達したとあるが、もし父子の譴責《けんせき》が厳重に過ぎて一同死守の勢いにもならば実に容易ならぬ事柄だというにある。当今は人心沸騰の時勢、何事も叡慮《えいりょ》を伺った上でないと朝廷の思《おぼ》し召しはもとより長防鎮庄の運命もどうなることであろうか、今般の征伐はしばらく猶予され、大小の侯伯の声に聞いて国是《こくぜ》を立てられたい、長州一藩のゆえをもって皇国|擾乱《じょうらん》の緒を開くようではいったんの盛挙もかえって後日の害となるべきかと深く憂慮されるというにある。
しかし、幕府ではこれらの建白に耳を傾けようとしなかった。細川のような徳川|譜代《ふだい》と同様の感のあった大諸侯までが参覲交代の復旧を非難するとは幕府としては堪《た》えられなかったことで、この際どんな無理をしても幕府の頽勢《たいせい》を盛り返し、自己《おのれ》にそむくものは討伐し、日光山大法会の余勢と水戸浪士三百五十余人を斬《き》った権幕《けんまく》とで、年号まで慶応元年と改めた東照宮二百五十回忌を期とし、大いに回天《かいてん》の翼を張ろうとした。
事実、幕府では回天、回陽《かいよう》と命名せらるべき二隻の軍艦を造る準備最中の時でもあった。この二艦の名ほど当時の幕府の真相をよく語って見せているものもない。もう一度太陽のかがやきを見たいとは、東照宮の覇業《はぎょう》を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川全盛の昔を忘れかねる諸有司の強硬な主張から生まれた。これは長防の征討とは言うものの、その実、種々《さまざま》な目的をもって企てられた。四国外交団をあやなすこともその一つであった。ひそかに朝廷に結ぼうとする外藩をくじくこともその一つであった。飽くまでも公武合体の道を進もうとする一橋慶喜と会津との排斥も、あるいはその奥の奥には隠されてあったと言うものもある。
閏《うるう》五月十六日、将軍はついに征長のために進発した。往時東照宮が関ヶ原合戦の日に用いたという金扇の馬印《うまじるし》はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術《そうじゅつ》と砲術との諸師範役、大目付《おおめつけ》、勘定奉行、軍艦奉行なぞは供奉《ぐぶ》の列の中にあった。その盛んな軍装をみたものは幕府の威信がまだ全く地に墜《お》ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人もあり、全国の寺社までが国恩のために上納金を願い出ることを説諭された。幕府がこの進発の入用のために立てた一か月分の予算は十七万四千二百両の余であった。当時幕府には二つの宝蔵があって、富士見《ふじみ》にあるを内蔵《うちぐら》ととなえ、蓮池《はすいけ》にあるを外蔵《そとぐら》ととなえたが、そのうち内蔵にあった一千万両の古金をあげてこの進発の入用にあてたというのを見ても、いかに大がかりな計画であったかがわかる。
同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督として芸州《げいしゅう》まで進まれた時は実に長州に向かって開戦する覚悟であった、それにひきかえて今度の進発は初めから戦わない覚悟である。いかに長州が強藩でも天下の敵に当たって戦うことはできまい、去年尾州殿の陣頭にさえ首を下げて服罪したくらいである、まして将軍家の進発と聞いたら驚き恐れて毛利《もうり》父子が大坂に来たり謝罪して御処置を奉ずるのは、あだかも関ヶ原のあとで輝元《てるもと》一家が家康公におけるがごとくであろう。これは幕府方の閣老をはじめ幕軍一同の期待するところであったという。ところが再度の長防征討の企ては、備前家や越前家をはじめこの進発に不服な諸大名の憂慮したような死守の勢いにまで長州方を追いつめてしまった。
幕府方にはすでに砲刃矢石《ほうじんしせき》の間に相見る心が初めからない。金扇のかがやきは高くかかげられても、山陽道まで進もうとはしない。大軍が悠々《ゆうゆう》と閑日月《かんじつげつ》を送る地は豊臣《とよとみ》氏の恩沢を慕うところの大坂である。ある人の言葉に、ほととぎすは啼《な》いて天主台のほとりを過ぎ、五月《さつき》の風は茅渟《ちぬ》の浦端《うらわ》にとどまる征衣を吹いて、兵気も三伏《さんぷく》の暑さに倦《う》みはてた、とある。
過ぐる文久年度の生麦《なまむぎ》事件以上ともいうべき外国関係の大きなつまずきが、この不安な時の空気の中に引き起こって来た。
安政五年の江戸条約が諸外国との間に結ばれてから、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川《かながわ》、長崎、函館《はこだて》の三港を開き、新潟《にいがた》の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫《ひょうご》を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中|安藤対馬《あんどうつしま》は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬として、五か年間の延期を承諾させたのである。
過ぐる四年は、実にこの国が全くの未知数とも言うべきヨーロッパに向かって大切な窓々を開くべきか否かの瀬戸ぎわに立たせられた苦《にが》い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、幕府が三百万両からの背負《しょ》い切れないほどの償金を負わせられたのも、当時に高い排外熱の結果にほかならない。
最初この償金は長州藩より提出すべき四国公使の要求であったという。しかし同藩では朝廷と幕府の命令に基づいて砲撃したのであるから、これを幕府に求めるのが当然だと言い張り、四国公使もまた長州藩から出させることの困難を察して、幕府が大名の取り締まりを怠りその職責を尽くさなかったことの罪に帰した。この償金の無理なことは四国公使も承知していて、例の開港さえ決行したなら償金は要求しないとの意味をその際の取りきめ書に付け添えたくらいである。そういう公使らはとらえられるだけの機会をとらえて、条約の履行を幕府に促そうとした。四年の月日は早くも経過して慶応元年となったが、幕府にはさらに開港の準備をする様子もない。そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人が出て来た。その強い主張によると、幕府は条約にそむくことの恐るべき結果を生ずる旨《むね》を朝廷に申し上げて、よろしく条約の勅許を仰ぐべきである。それでもなお勅許を得られないとあるなら、四国公使はもはや徳川将軍を相手としまい、直接に朝廷に向かって条約の履行を要求しようというにあった。英艦四隻、仏艦三隻、米艦一隻、蘭艦《らんかん》一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。十七日には、そのうち三隻が大坂の天保山沖《てんぽうざんおき》まで来て、七日を期して決答ありたいという各公使らの書翰《しょかん》を提出した。莫大《ばくだい》な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力をもって海の外から迫って来たものを相手としなければならなかったのである。どうしてこれは長州征伐どころの話ではなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、今すこしで占領の憂《う》き目を見るところであったことは、下の関の戦いが実際にそれを証拠立てていた。
連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で大坂に赴《おもむ》きその交渉の役目に服すべき二人を任命した。山口|駿河《するが》はその一人《ひとり》であったのだ。
山口駿河は号を泉処《せんしょ》という。当時外国奉行の首席である。函館奉行の組頭《くみがしら》から監察(目付)に進んだ友人の喜多村瑞見《きたむらずいけん》とも親しい。この人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁《めんえつ》し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は皆途方に暮れている。将軍は西上して国内がすでに多端の際であるのに、この上、外国から逼《せま》られてはどうしたらいいかと言って、ほとんどなすべきところを知らないに近いようなものばかりだ。その時、駿河は改めて大目付兼外国奉行に任ずるよしの命をうけ、とりあえず外国船に行って一応の尋問をなし、二十三日には老
前へ
次へ
全44ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング