総督|摂海防禦《せっかいぼうぎょ》指揮の重職にあって、公武一和を念とし、時代の趨勢《すうせい》をも見る目を持ったこの人は、何事にも江戸を主にするほど偏頗《へんぱ》でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱《いだ》き、公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とてもその誠意は認められ、加うるに会津のような勢力があって終始その後ろ楯《だて》となっている。どうかすると慶喜の声望は将軍家茂をしのぐものがある。これは江戸幕府から言って煙《けむ》たい存在にはちがいない。慶喜排斥の声は一朝一夕に起こって来たことでもないのだ。はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先《ほこさき》をあらわした。
 慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率いて加州の陣屋に降《くだ》るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして陰ながら尽力するところがあったとのことである。同じ御隠居の庶子《しょし》にあたる浜田《はまだ》、島原《しまばら》、喜連川《きつれがわ》の三侯も、武田らのために朝廷と幕府とへ嘆願書を差し出し、因州、備前《びぜん》の二侯も、浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》だ。田沼侯は筑波以来の顛末《てんまつ》を奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めとある。怒《おこ》るまいことか、田沼侯は朝廷が幕府を辱《はず》かしめるもはなはだしいとして、兵権政権は幕府に存するととなえ、あだかも一橋慶喜なぞは眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀《つるが》に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士全員の引き取りを言い渡した。この総督は、市川三左衛門らの進言に耳を傾け、慶喜が武田ら死罪赦免の儀を朝廷より御沙汰《ごさた》あるよう尽力中であると聞いて、にわかに浪士の処刑を急いだという。
 加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命《いのち》を助けることができなかったか。それにつき、世間には種々《さまざま》な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿《うが》ち過ぎた説だとして、伯耆《ほうき》から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺《すわらいがくじ》の和尚《おしょう》なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀|本勝寺《ほんしょうじ》の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
 田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人|塩原彦七《しおばらひこしち》ですらそれを言って、幕府の若年寄《わかどしより》ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息《へいそく》し、徐行|逗留《とうりゅう》してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳《ふうせいかくれい》にも胆《きも》が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降《くだ》ったと見ると、虎の威を借りて刑戮《けいりく》をほしいままにするとはなんという卑怯《ひきょう》さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采《ふうさい》の人で、天狗連《てんぐれん》追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖《こんぺいとう》を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮《けいりく》をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
 千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬《き》られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶《くびおけ》に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三|間《げん》四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構《むかまい》追放となった。
 ある日、半蔵は本陣の店座敷から西側の廊下を通って、家のものの集まっている仲の間へ行って見た。継母のおまんはお民を相手に糸などを巻きながら、日光大法会のうわさをしたり、水戸浪士のうわさをしたりしている。おまんは糸巻きを手にしている。お民は山梔色《くちなしいろ》の染め糸を両手に掛けている。おまんがすこしずつ繰るたびに、その染め糸の束《たば》はお民の両手を回って、順にほどけて行った。廂《ひさし》の深い障子の間からさし込む日光はその黄な染め糸の色を明るく見せている。
「お母《っか》さんもお聞きでしたか。」と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級《くび》も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね。」
 おまんはお民の手にからまる染め糸をほぐしほぐし、「どうも、えらい話さ。お父《とっ》さん(吉左衛門)もそう言っていたよ、三百五十人からの死罪なんて、こんな話は今まで聞いたこともないッて。」
 その時、半蔵は江戸の方から来た聞書《ききがき》を取り出して、それを継母や妻にひろげて見せた。武田らの遺族で刑せられたものの名がそこに出ていた。武田伊賀の妻で四十八歳になるときの名も出ていた。八歳になる忰《せがれ》の桃丸《ももまる》、三歳になる兼吉《かねよし》の名も出ていた。それから、武田|彦右衛門《ひこえもん》の忰で十二歳になる三郎、十歳になる二男の金四郎、八歳になる三男の熊五郎《くまごろう》の名も出ていた。この六名はみな死罪で、ことに桃丸と三郎の二名は梟首《さらしくび》を命ぜられた。
「市川党もずいぶん惨酷《ざんこく》をきわめましたね。こいつを生かして置いたら、仇《あだ》を復《かえ》される時があるとでも思うんでしょうか。それにしても、こんな罪もない幼いものにまで極刑を加えるなんて、あさましくなる。」
 と半蔵が言う。
「まあ、お母《っか》さん、ここに武田伊賀忰、桃丸、八歳とありますよ。吾家《うち》の宗太の年齢《とし》ですよ。」とお民もそれをおまんに言って見せた。
「そう言えば、あの遺族が牢屋《ろうや》に入れられていますと、そこへ牢屋の役人が耕雲斎以下の首を持って来まして、牢屋の外からその首を見せたと言いますよ。今は花見時だ、お前たちはこの花を見ろと、そう役人が言ったそうですよ。」
「どういうつもりで、そんなことを言ったものかいなあ。」とおまんも半蔵夫婦の顔を見比べながら、
「遺族にお別れをさせるつもりだったのか、それとも辱《は》じしめるつもりだったのか。」
「実にけしからん、無情な事をしたものだッて、そう言わないものはありませんよ。」
 武田、山国、田丸らが遺族の男の子は死罪に、女の子は永牢を命ぜられた。そのうち、永牢を申し渡されたものの名は次のように出ていた。
[#地から11字上げ]武田伊賀娘
[#地から7字上げ]よし
[#地から6字上げ]十一歳
[#地から14字上げ]同妾《めかけ》
[#地から7字上げ]むめ
[#地から6字上げ]十八歳
[#地から9字上げ]武田彦右衛門妻
[#地から7字上げ]いく
[#地から6字上げ]四十三歳
[#地から11字上げ]山国兵部妻
[#地から7字上げ]なつ
[#地から6字上げ]五十歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]ちい
[#地から6字上げ]三十歳
[#地から8字上げ]山国|淳一郎《じゅんいちろう》娘
[#地から7字上げ]みよ
[#地から6字上げ]十一歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]ゆき
[#地から6字上げ]七歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]くに
[#地から6字上げ]五歳
[#地から9字上げ]田丸稲右衛門娘
[#地から7字上げ]まつ
[#地から6字上げ]十九歳
[#地から14字上げ]同娘
[#地から7字上げ]むめ
[#地から6字上げ]十歳
 おまんは言った。
「半蔵、あのお父《とっ》さんがこれを見たら、なんと言うだろうね。こないだも裏の隠居所の方で何を言い出すかと思ったら、あゝあゝ、おれも六十七の歳《とし》まで生きて、この世の末を見過ぎたわいとさ。」

       四

 参覲交代制度の復活が幕府の期待を裏切ったことは、諸藩の人心がすでに幕府を去ったことを示した。すこしく当時の形勢を注意して見るものは諸藩が各自に発展の道を講じはじめたことを見いだす。海運業のにわかな発達、船舶の増加、学生の海外留学なぞは皆その結果で、その他あるいは兵制に、あるいは物産に、後日のために計るものはいずれもまず力をその藩に尽くしはじめた。
 中国の大藩、御三家の一つなる尾州ですらこの例にもれない。そのことは尾州家の領地なる木曾地方にもあらわれて、一層の注意が森林の保護と良材の運輸とに向けられ、塩の|買〆《かいしめ》も行なわれ、御嶽山麓《おんたけさんろく》に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。人参《にんじん》の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県《ちいさがた》の上田、水内《みのち》の飯山《いいやま》あたりまでさかんに奨励され、それを尾州藩で一手《いって》に買い上げた。尾州家の御用という提灯《ちょうちん》をふりかざし、尾州御薬園御用の旗を立てて、いわゆる尾張薬種の荷が木曾の奥筋から馬籠《まごめ》へと運ばれて来る光景は、ちょっと他の街道に見られない図だ。
 五月にはいって、半蔵は木曾福島の地方御役所《じかたおやくしょ》から呼ばれた用向きを済まし、同行した宿方のものと一緒に馬籠へ帰って来た。その用向きは、前年十二月に尾州藩から仰せ出された献金の件で、ようやくその年の五月に福島へ行って献納の手続きを済まして来たところであった。献金の用途とはほかでもない。尾州の御隠居を征討総督にする最初の長州征伐についてである。
 最初、長州征伐のことが起こった時、あれは半蔵が木曾下四宿の総代として江戸に出ていたころで、尾州藩では木曾谷中三十三か村の庄屋あてに御隠居の直書《じきしょ》になる依頼状を送ってよこした。それには、今般長州征伐の件で格別の台命《たいめい》をこうむり病中を押して上京することになった、その上で西国筋へ出陣にも及ばねばならないということから始めて、この容易ならぬ用途はさらに見当もつかないほど莫大《ばくだい》なことであると書いてあり、従来|不如意《ふにょい》な勝手元でほかに借財の途《みち》もほとんど絶えている、この上は領民において入費を引き受けてくれるよりほかにない、これは木曾地方の領民にのみ負担させるわけでもない、もとよりこれまで追い追いと調達を依頼し実に気の毒な次第ではあるが、尋常ならぬ時勢をとくと会得《えとく》して今般の費用を調《ととの》えるよう、よくよく各村民へ言い聞かせてもらいたいとの意味が書いてあった。
 この御隠居の依頼状に添えて、尾州家の年寄衆からも別に一通の回状を送ってよこした。それもやはり領民へ献金依頼のことを書いたもので、御隠居が直書《じきしょ》をもって仰せ出されるほどこの非常時の入費については心配しておらるる次第である、方今《ほうこん》の形勢は上下一致の力に待つのほかはない、領民一同報国の至誠を励むべき時節に差し迫ったと書いてあり、これまでとて
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