》を贈られ、降蔵らまでそのもてなしがあった上で、加州の家老|永原甚七郎《ながはらじんしちろう》が来ての言葉に、これまでだんだん周旋したいつもりで種々尽力したが、なにぶんにも行き届かず、公辺へ引き渡すことになったからその断わりに罷《まか》り出たのであると。それを聞いた時の隊長らの驚きはなかった。ここで切腹すべきかと言い出すものがあり、加州を恨むものがある。いったん身柄を任せた上は是非もないことだ、いかように取り扱われるとも拠《よんどころ》なしと覚悟した浪士の中には辞世の詩を作り歌を読むものがあった。十一人ずつの組で、降蔵らまで駕籠《かご》で送られて行った先は十六番からある暗い土蔵の中だ。所持の巾着《きんちゃく》、また懐中物等はすべてお預けということになった。手枷《てかせ》、足枷《あしかせ》がそこに降蔵らを待っていたのだった……
 清助は諏訪の百姓の方を見て言った。
「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい。」
「そりゃ、お前さま、何度わたくしも国の方へ逃げ帰りたいと思ったか知れません。お暇《いとま》をいただきます、御免こうむりますと言い出せばそのたびに天誅《てんちゅう》、天誅ですで。でも、妙なもので、毎日|鎗《やり》をかついだり、荷物を持ったり、隊長の話を聞いたりするうちに、しまいにはこの人たちの行くところまで供をしようという気になりました。」
「和田峠の話は出なかったかい。浪士の中にいたら、あの合戦の話も聞いたろう。」
「さようでございます。諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、今一手もあったらなにぶん当惑するところだったと申しておりました。あの山国兵部の謀《はかりごと》で、奇兵に回ったものですから、ようやく打ち破りはしたものの、ずいぶん難戦いたしたような咄《はなし》を承りました。」


 四月が来たら、というその月の末まで待って見ても、西の領地にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、肥前、因州なぞの女中方や姫君から薩州《さっしゅう》の簾中《れんちゅう》まで、かつてこの街道経由で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思いもよらない。わずかにこの街道では四月二十七日に美濃|苗木《なえぎ》の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前《ひろさき》城主|津軽侯《つがるこう》の通行とを迎えたのみだ。
 しかし、馬籠の宿場が閑散であったわけではない。二度と参覲交代の道を踏む諸大名こそまれであったが、三月二十二日あたりから四月七日ごろへかけて日光|大法会《だいほうえ》のために東下する勅使や公卿たちの通行の混雑で、半蔵は隣家の年寄役伊之助らと共に熱い汗を流し続けた。幕府では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸|僧正《そうじょう》を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行《じしゃぶぎょう》、大目付、勘定奉行から納戸頭《なんどがしら》までも参列させ、天台宗徒《てんだいしゅうと》をあつめて万部の仏経を読ませ、諸人にその盛典をみせ、この際――年号までも慶応《けいおう》元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百両の金を携えた役人が出張して来て、日によっては千人の人足を買い揚げたのを見ても、いかにその通行の大がかりなものであったかがわかる。奈良井宿詰《ならいしゅくづ》めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那|助郷《すけごう》が五百人も出た日の後には、須原《すはら》通しの人足五千人の備えを要するほどの勅使通行の日が続いた。
 この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末《てんまつ》がいろいろな形で世上に流布《るふ》するようになった。これほど各地の沿道を騒がした出来事の真相がそう秘密に葬られるはずもない。宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の悲惨な最期を序幕とする水府義士の悲劇はようやく世上に知れ渡った。
 いくつかの多感な光景は半蔵の眼前にもちらついた。武田耕雲斎の同勢が軍装で中仙道《なかせんどう》を通過し、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州路《ごうしゅうじ》へ出張し鎮撫《ちんぶ》に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容《い》れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原《おだわら》、会津《あいづ》、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄《いまじょう》に到着したので、諸藩の探偵《たんてい》は日夜織るがごとくであり、実にまれなる騒擾《そうじょう》であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩《おおがきはん》の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩《ひこねはん》、丸山藩であって、その中でも監軍永原甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど諸藩の士卒で埋《うず》められたとは、半蔵などの想像以上であった。
 武田耕雲斎は新保宿を距《さ》る二十町ほどの村に加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意のないことを述べ、一同のために道を開かれたいと願った。その時の加州方からの返書は左のようなものであったとある。
[#ここから2字下げ]
お手紙|披見《ひけん》いたし候《そうろう》。されば御嘆願のおもむきこれあり候につき、滞りなく通行の儀、かつ外諸侯へ対し接戦の存じ寄り毛頭これなき旨《むね》、委曲承知いたし候えども、加賀中納言殿人数当宿出張いたし候儀は一橋中納言殿の厳命に候条、是非なく一戦に及ぶべき存じ寄りに御座候。なお、後刻を期し一戦の節は御報に及ぶべく候。貴報かくのごとくに御座候。以上。
 子《ね》十二月十一日[#地から7字上げ]加賀中納言内
[#地から2字上げ]永原甚七郎
   武田伊賀守殿内
     安藤彦之進殿
[#ここで字下げ終わり]
 時に雪は一丈余、浪士らは食も竭《つ》き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと交戦するのは本意でないとして、その日に白米二百俵、漬《つ》け物十|樽《たる》、酒二|石《こく》、※[#「魚+昜」、198−14]《するめ》二千枚を武田の陣中に送った。同時に来たる十七日の暁天を期して交戦に及ぼうとの戦書をも送った。ところが耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣《つか》わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀までそこへ投げ捨てるほどにして誠意を示した小四郎らの態度に感じ、一統へ相談に及ぶべき旨を答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者|一人《ひとり》推参すると甚七郎は言って、ひとまず耕雲斎の帰陣を求めた。そこで甚七郎は出かけた。新保宿にある武田の本営では入り口に柵《さく》を結いめぐらし、鎗《やり》大砲を備え、三百人の銃手がおのおの火繩《ひなわ》を消し、一礼してこの甚七郎を迎え入れた。耕雲斎は白羅紗《しろらしゃ》の陣羽織を着け、一刀を帯び、草鞋《わらじ》をはいて甚七郎を迎えたという。甚七郎は自己の率いて行った兵を営外にとどめ、単身耕雲斎の案内で玄関に行って見ると、そこには山国兵部、田丸稲右衛門、藤田小四郎を始め二十五人の幹部のものがいずれも大小刀を帯びないで出迎えていた。その時だ。甚七郎も浪士らの態度に打たれ、規律正しい陣所の光景にも意外の思いをなし、ようやくさきの戦意をひるがえした。しからば願意をきき届けようと言って、その旨を耕雲斎に確答し、一橋中納言に捧呈《ほうてい》する嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、二通の書面を一橋公に捧呈した。その嘆願書と始末書には、筑波《つくば》挙兵のそもそもから、市川三左衛門らの讒言《ざんげん》によって幕府の嫌疑《けんぎ》をこうむったことに及び、源烈公が積年の本懐も滅びるようであっては臣子の情として遺憾に堪《た》えないことを述べ、亡《な》き宍戸侯《ししどこう》のために冤《えん》をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の心事は尊攘の精神にほかならないことをこまごまと言いあらわしてあったという。
 過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた。その時になると、浪士軍中に二つのものの流れのあったことも彼には想《おも》い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎は将士を集めて評議を凝らしたという。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭《わかさ》、丹後《たんご》を経て石見《いわみ》の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ。山国兵部は浪士軍中の最年長者ではあるものの、その意気は壮者をしのぐほどで、しきりに長州行きを主張した。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢《の》ぶることも難くはあるまい、今さら加州藩に嘆願哀訴するごときことはいかにも残念である、むしろ潔く決戦したいとの意見を述べたとか。しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒《せんぽう》を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。筑波《つくば》組の田丸、藤田らと、館山《たてやま》から合流した武田との立場の相違はそこにもあらわれている。「所詮《しょせん》、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との反抗心から出発した藤田らと、飽くまで尊攘の名義を重んじ一橋慶喜の裁断に死生を託し宍戸侯の冤罪《えんざい》を晴らさないことには済まないと考える武田とは、最初から必ずしも同じものではなかったのだ。
 ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵らにとってただただ山国兵部や横田東四郎や亀山嘉治のような犠牲者を平田同門の中から出したというにとどまらなかった。なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かった。諸藩に魁《さきがけ》して大義名分を唱えたことも早かった。激しい党争の結果、時代から沈んで行くことも早かった。


 半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。幕府が一橋慶喜に対する反目のはなはだしいには、これにも彼は心を驚かされた。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るようになった。
 もともと一橋慶喜は紀州出の家茂《いえもち》を将軍とする幕府方によろこばれている人ではない。井伊大老在世の日、徳川世子の継嗣問題が起こって来たおりに、今の将軍と競争者の位置に立たせられたのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使|下向《げこう》となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職に就《つ》いたのもこの人だ。幕府改革の意見を抱《いだ》いた越前の松平|春嶽《しゅんがく》が説を採用して、まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断に出たのもこの人だ。禁裡《きんり》守衛
前へ 次へ
全44ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング