き》、和歌や能楽に堪能《かんのう》なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。当時伊那にある四人の先輩のうち、片桐春一、北原稲雄、原信好の三人が南を代表するとすれば、義髄は北を代表すると言われている人である。
「青山君――こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ。」
 これは一度義髄を見たものが忘れることのできないような頬髯《ほおひげ》の印象と共に、半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。
 半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和《やまと》五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山《いくのぎんざん》に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波《つくば》の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮《しょせん》このままに屏息《へいそく》すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。
 そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと見なされ、生かさず殺さずと言われたような方針で、衣食住の末まで干渉されて来た武家の下に立って、すくなくも彼はその百姓らを相手にする田舎者《いなかもの》である。仮りに楠公《なんこう》の意気をもって立つような人がこの徳川の末の代に起こって来て、往時の足利《あしかが》氏を討《う》つように現在の徳川氏に当たるものがあるとしても、その人が自己の力を過信しやすい武家であるかぎり、またまた第二の徳川の代を繰り返すに過ぎないのではないかとは、下から見上げる彼のようなものが考えずにはいられなかったことである。どんな英雄でもその起こる時は、民意の尊重を約束しないものはないが、いったん権力をその掌中に収めたとなると、かつて民意を尊重したためしがない。どうして彼がそんなところへ自分を持って行って考えて見るかと言うに、これまで武家の威力と権勢とに苦しんで来たものは、そういう彼ら自身にほかならないからで。妻籠《つまご》の庄屋寿平次の言葉ではないが、百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことにおかまいなしでいられるくらいなら、何も最初から心配することはなかったからで……
 考え続けて行くと、半蔵は一時代前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧《ふる》い影響の働いていることを想《おも》い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に漢意《からごころ》のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾《さしはさ》んで天下に号令するというを何か丈夫の本懐のように説くものもある。たといそれがやむにやまれぬ慨世《がいせい》のあまりに出た言葉だとしても、天子を挾《さしはさ》むというはすなわち武家の考えで、篤胤の弟子《でし》から見れば多分に漢意《からごころ》のまじったものであることは争えなかった。
 武家中心の時はようやく過ぎ去りつつある。先輩義髄が西の志士らと共に画策するところのあったということも、もしそれが自分らの生活を根から新しくするようなものでなくて、徳川氏に代わるもの出《い》でよというにとどまるなら、日ごろ彼が本居平田諸大人から学んだ中世の否定とはかなり遠いものであった。その心から、彼は言いあらわしがたい憂いを誘われた。


 水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪《すわ》の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。
 諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐《ふところ》から取り出し、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀《つるが》の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪|飯島村《いいじまむら》、当時無宿|降蔵《こうぞう》とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前《えちぜん》まで罷《まか》り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許すという意味を認《したた》めてあり、ついては追放の節に小遣《こづか》いとして金壱分をあてがってあるが、万一途中で路銀に不足したら、街道筋の問屋でよろしく取り計らってやってくれと認《したた》めてある。
 半蔵はすぐにその百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼の胸に来た。
「旦那《だんな》、わたくしは鎗《やり》をかつぎまして、昨年十一月の二十七日にお宅の前を通りましたものでございます。」
 降蔵の挨拶《あいさつ》だ。
 旅の百姓は本陣の表玄関のところに立って、広い板の間の前の片すみに腰を曲《こご》めている。ちょうど半蔵は昼の食事を済ましたころであったが、この男がまだ飯前だと聞いて、玄関から手をたたいた。家のものを呼んで旅の百姓のために簡単な食事のしたくを言いつけた。
「この書付のことは承知した。」と半蔵は降蔵の方を見て言った。「まあ、いろいろ聞きたいこともある。こんな玄関先じゃ話もできない。何もないが茶漬《ちゃづ》けを一ぱい出すで、勝手口の方へ回っておくれ。」
 降蔵は手をもみながら、玄関先から囲炉裏ばたの方へ回って来た。草鞋《わらじ》ばきのままそこの上がりはなに腰掛けた。
「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」
 それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日《ついたち》、二日は敦賀《つるが》の本正寺《ほんしょうじ》で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守はじめ二十四人が死罪になった。五日よりだんだんお呼び出しで、降蔵同様に人足として連れられて行ったものまで調べられた。降蔵は六番の土蔵にいたが、その時|白洲《しらす》に引き出されて、五日より十日まで惣勢《そうぜい》かわるがわる訊問《じんもん》を受けた。浪士らのうち、百三十四人は十五日に、百三人は十六日に打ち首になった。そうこうしていると、ちょうど十七日は東照宮の忌日に当たったから、御鬮《みくじ》を引いて、下回りの者を助けるか、助けないかの伺いを立てたという。ところが御鬮のおもてには助けろとあらわれた。そこで降蔵らは本正寺に呼び出され、門前で足枷《あしかせ》を解かれ、一同書付を読み聞かせられた。それからいったん役人の前を下がり、門前で髪を結って、またまた呼び出された上で最後の御免の言葉を受けた。読み聞かせられた書付は爪印《つめいん》を押して引き下がった。その時、降蔵同様に追放になったものは七十六人あったという。
「さようでございます。」と降蔵は同国生まれの仲間の者だけを数えて見せた。「わたくし同様のものは、下諏訪《しもすわ》の宿から一人《ひとり》、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那の松島宿から十四、五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠《たかとお》の宮城《みやしろ》からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出るから、わたくしも難儀な旅をいたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀《つるが》のお寺に御厄介《ごやっかい》になってまいりました。まあ、命拾いをしたようなものでございます。」
 お民は下女に言いつけて、飯櫃《めしびつ》と膳《ぜん》とをその上がりはなへ運ばせた。
「亀山《かめやま》さんもどうなりましたろう。」
 それをお民が半蔵に言うと、降蔵は遠慮なく頂戴《ちょうだい》というふうで、そこに腰掛けたまま飯櫃を引きよせ、おりからの山の蕨《わらび》の煮つけなぞを菜にして、手盛りにした冷飯《ひやめし》をやりはじめた。半蔵は鎗《やり》をかついで浪士らの供をしたという百姓の骨太な手をながめながら、
「お前は小荷駄掛《こにだがか》りの亀山|嘉治《よしはる》のことを聞かなかったかい。あの人はわたしの旧《ふる》い友だちだが。」
「へえ、わたくしは正武隊付きで、兵糧方《ひょうろうかた》でございましたから、よくも存じませんが、重立った御仁《ごじん》で助けられたものは一人もございませんようです。ただいま申し上げましたように、わたくしは追放となりましてから患《わずら》いまして、しばらく敦賀に居残りました。先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、十九日にも七十六人、二十三日も十六人が打ち首になりました。」
「とうとう、あの亀山も武田耕雲斎や藤田小四郎なぞと死生を共にしたか。」
 半蔵はお民と顔を見合わせた。
 おまんをはじめ、清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た。この本陣に働くものはいずれも前の年十一月の雨の降った日の恐ろしかった思いを噛《か》み返して見るというふうで。
 順序もなく降蔵が語り出したところによると、美濃《みの》から越前《えちぜん》へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難をきわめたのは国境の蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》へかかった時であったという。毎日雪は降り続き、馬もそこで多分に捨て置いた。荷物は浪士ら各自に背負い、降蔵も鉄砲の玉のはいった葛籠《つづら》を負わせられたが、まことに重荷で難渋した。極々《ごくごく》の難所で、木の枝に取りついたり、岩の間をつたったりして、ようやく峠を越えることができた。その辺の五か村は焼き払われていて、人家もない。よんどころなく野陣を張って焼け跡で一夜を明かした。兵糧は不足する、雪中の寒気は堪《た》えがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重《いくえ》にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿《いまじょうじゅく》までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。もっとも食糧だけは家の前に出してあって、なにぶん火の用心頼むと張り紙をしてあった。その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋《うず》めた。家数四十軒ほどある新保村《しんぽむら》まで行って、一同はほとんど立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州|金沢藩《かなざわはん》をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
 降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣《おもむ》くところを目撃したという。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。降蔵らもにわかに閑暇《ひま》になったから、火|焚《た》きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油《しょうゆ》も各隊へ持ち運んだ。師走《しわす》も十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国|兵部《ひょうぶ》らは武田耕雲斎を諫《いさ》め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、その翌日の暁《あけ》八つ時《どき》を期し囲みを衝《つ》いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊《た》いたが、とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀《つるが》に移った。そこにある三つの寺へ惣《そう》人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴《さかな》を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。手ぬぐい、足袋《たび》、その他、手厚い取り扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。
 正月の二十七日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》に引き渡された日であった。その日は加州から浪士一同へ酒肴《しゅこう
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