でずして天下を知るですか。どんな博識多才の名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛《じょうらく》して三月もたつかたたないうちに、ばっさり殺《や》られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変したかわかりません。」
「それにはこういう事情もあります。」と景蔵は正香の話を引き取って、「象山が斬られたのは、あれは池田屋事件の前あたりでしたろう。ねえ、香蔵さん、たしかそうでしたね。」
「そう、そう、みんな気が立ってる最中でしたよ。」
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山《えいざん》に御輿《みこし》を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代藩から六百石の格式でやって来て、山階宮《やましなのみや》に伺候したり慶喜公《よしのぶこう》に会ったりして、彦根《ひこね》への御動座を謀《はか》るといううわさが立ったものですからね。これは邪魔になると一派の志士からにらまれたものらしい。」
「まあ、あれほどの名士でしたら、もっと光を包んでいてもらいたかったと思いますね。」とまた正香が言った。「どうも今の洋学者に共通なところは、とかくこのおれを見てくれと言ったようなところがある。あいつは困る。でも、象山のような人になると、『東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)』というくらいの見きわめがありますよ。あの人には、かなり東洋もあったようです。そりゃ、象山のような洋学者ばかりなら頼もしいと思いますがね、洋学一点張りの人たちと来たら、はたから見ても実に心細い。見たまえ、こんな徳川のような圧制政府は倒してしまえなんて、そういうことを平気で口にしているのも今の洋学者ですぜ。そんなら陰で言う言葉がどんな人たちの口から出て来るのかと思うと、外国関係の翻訳なぞに雇われて、食っているものも着ているものも幕府の物ばかりだという御用学者だから心細い。それに衣食していながら、徳川をつぶすというのはどういう理屈かと突ッ込むものがあると、なあに、それはかまわない、自分らが幕府の御用をするというのは何も人物がえらいと言って用いられているのじゃない、これは横文字を知ってるというに過ぎない、たとえば革細工《かわざいく》だから雪駄直《せったなお》しにさせると同じ事だ、洋学者は雪駄直しみたようなものだ、殿様方はきたない事はできない、幸いここに革細工をするやつがいるからそれにさせろと言われるのと少しも変わったことはない、それに遠慮会釈も糸瓜《へちま》も要《い》るものか、さっさと打《ぶ》ちこわしてやれ、ただしおれたちは自分でその先棒になろうとは思わない――どうでしょう、君、これが相当に見識のある洋学者の言い草ですよ。どうしたって幕府は早晩倒さなけりゃならない、ただ、さしあたり倒す人間がないからしかたなしに見ているんだ、そういうことも言うんです。こんな無責任なことを言わせる今の洋学は考えて見たばかりでも心細い。自分さえよければ人はどうでもいい、百姓や町人はどうなってもいい、そんな学問のどこに熱烈|峻厳《しゅんげん》な革新の気魄《きはく》が求められましょうか――」
 後進の半蔵らを前に置いて、多感で正直なこの先輩は色のあせた着物の襟《えり》をかき合わせた。あだかも、つくづく身の落魄《らくはく》を感ずるというふうに。


「半蔵さん、ともかくもわたしと一緒に伴野までおいでください。君や香蔵さんをお誘いするようにッて、松尾の子息《むすこ》がくれぐれも言い置いて行きました。あの人は暮田正香と一緒に、けさ一歩《ひとあし》先へ立って行きました。」
「そんなに多勢で押し掛けてもかまいますまいか。」
「なあに、三人や四人押し掛けて行ったって迷惑するような家じゃありませんよ。」
「わたしもせっかく飯田まで来たものですから、ついでに山吹社中の輪講に出席して見たい。あの社中の篤胤研究をききたいと思いますよ。こんなよい機会はちょっとありませんからね。」
「そんなら、こうなさるさ。伴野から山吹へお回りなさるさ。」
 翌日の朝、景蔵と半蔵とはこの言葉をかわした。
 こんなふうで友だちに誘われて行った伴野村での一日は半蔵にとって忘れがたいほどであった。彼は松尾の家で付近の平田門人を歴訪する手引きを得、日ごろ好む和歌の道をもって男女の未知の友と交遊するいとぐちをも見つけた。当時|洛外《らくがい》に侘住居《わびずまい》する岩倉公《いわくらこう》の知遇を得て朝に晩に岩倉家に出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都|便《だよ》りも、半蔵にはめずらしかった。
 伊那の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供の佐吉を引き留めて置いたのも、二人の友だちを送らせる下心があったからで。伊那には彼ひとり残った。それからの彼は、山吹での篤胤研究会とも言うべき『義雄集』への聴講に心をひかれたのと、あちこちと訪《たず》ねて見たい同門の人たちのあったのと、一晩のうちに四尺も深い雪が来たという大平峠の通行の困難なのとで、とうとう飯田に年を越してしまった。
 この小さな旅は、しかし平田門人としての半蔵の目をいくらかでも開けることに役立った。
「あはれあはれ上《かみ》つ代《よ》は人の心ひたぶるに直《なお》くぞありける。」
 先人の言うこの上つ代とは何か。その時になって見ると、この上つ代はこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった。世にいわゆる古代ではもとよりなかった。言って見れば、それこそ本居平田諸大人が発見した上つ代である。中世以来の武家時代に生まれ、どの道かの道という異国の沙汰《さた》にほだされ、仁義礼譲孝|悌《てい》忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けてきびしく人間を縛りつけてしまった封建社会の空気の中に立ちながらも、本居平田諸大人のみがこの暗い世界に探り得たものこそ、その上つ代である。国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古《いにしえ》ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。
 そこまでたどって行って見ると、半蔵は新しき古を人智のますます進み行く「近《ちか》つ代《よ》」に結びつけて考えることもできた。この新しき古は、中世のような権力万能の殻《から》を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。この世に王と民としかなかったような上つ代に帰って行って、もう一度あの出発点から出直すことによってのみ得らるる。この彼がたどり着いた解釈のしかたによれば、古代に帰ることはすなわち自然《おのずから》に帰ることであり、自然《おのずから》に帰ることはすなわち新しき古《いにしえ》を発見することである。中世は捨てねばならぬ。近つ代は迎えねばならぬ。どうかして現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい。そう彼が考えるようになったのもこの伊那の小さな旅であった。そして、もう一度彼が大平峠を越して帰って行こうとするころには、気の早い一部の同門の人たちが本地垂跡《ほんじすいじゃく》の説や金胎《こんたい》両部の打破を叫び、すでにすでに祖先葬祭の改革に着手するのを見た。全く神仏を混淆《こんこう》してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすてはそこにもここにも始まりかけていた。

       三

 元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓《さんろく》にある馬籠の宿場も活気づいた。伊勢参りは出発する。中津川商人はやって来る。宿々村々の人たちの往来、無尽の相談、山林売り払いの入札、万福寺中興開祖|乗山和尚《じょうざんおしょう》五十年忌、および桑山《そうざん》和尚十五年忌など、村方でもその季節を待っていないものはなかった。毎年の例で、長い冬ごもりの状態にあった街道の活動は彼岸《ひがん》過ぎのころから始まる。諸国の旅人をこの街道に迎えるのもそのころからである。
 その年の春は、ことに参覲交代《さんきんこうたい》制度を復活した幕府方によって待たれた。幕府は老中水野|和泉守《いずみのかみ》の名で正月の二十五日あたりからすでにその催促を万石以上の面々に達し、三百の諸侯を頤使《いし》した旧時のごとくに大いに幕威を一振《いっしん》しようと試みていた。
 諸物価騰貴と共に、諸大名が旅も困難になった。道中筋の賃銀も割増し、割増しで、元治元年の三月からその年の二月まで五割増しの令があったが、さらにその年三月から来たる辰年《たつどし》二月まで三か年間五割増しの達しが出た。実に十割の増加だ。諸大名の家族がその困難な旅を冒してまで、幕府の命令を遵奉《じゅんぽう》して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
 この街道の空気の中で、半蔵は伊那行き以来懇意にする同門の先輩の一人を馬籠本陣に迎えた。暮田正香の紹介で知るようになった伊那小野村の倉沢|義髄《よしゆき》だ。その年の二月はじめに郷里を出た義髄は京大坂へかけて五十日ばかりの意味のある旅をして帰って来た。


 義髄の上洛《じょうらく》はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都|土産《みやげ》にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
 義髄は、伊勢、大和《やまと》の方から泉州《せんしゅう》を経《へ》めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影《みやわだたねかげ》を訪《と》い、大坂にある岩崎|長世《ながよ》、および高山、河口《かわぐち》らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家《しらかわけ》に参候し神祇伯資訓《じんぎはくすけくに》卿に謁し祗役《しえき》の上申をしてその聴許を得、同家の地方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静《ふくばよしきよ》、池村邦則《いけむらくにのり》、小川一敏《おがわかずとし》、矢野玄道《やのげんどう》、巣内式部《すのうちしきぶ》らであった。彼はこれらの志士と相往来して国事を語り、共に画策するところがあった、という。彼はまた、ある日偶然に旧友|近藤至邦《こんどうむねくに》に会い、相携えて東山長楽寺《ひがしやまちょうらくじ》に隠れていた品川弥二郎《しながわやじろう》をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士との往来が幕府の嫌疑《けんぎ》を受けるもとになって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中|江州《ごうしゅう》の八幡《やわた》にたどり着いて西川善六《にしかわぜんろく》を訪い、足利《あしかが》木像事件後における残存諸士の消息を語り、それより回り路《みち》をして幕府|探偵《たんてい》の目を避けながら、放浪約五十日の後郷里をさして帰って来ることができたということだった。
 この先輩が帰省の途次、立ち寄って行った旅の話はいろいろな意味で半蔵の注意をひいた。義髄と前後して上洛した清内路《せいないじ》の先輩原|信好《のぶよし》が神祇伯白河殿に奉仕して当道学士に補せられたことと言い、義髄が同じ白河家から地方用人を命ぜられたことと言い、従来地方から上洛するものが堂上の公卿たちに遊説《ゆうぜい》する縁故をなした白河家と平田門人との結びつきが一層親密を加えたことは、その一つであった。西にあって古学に心を寄せる人々との連絡のついたことは、その一つであった。十二年の飯田を去った後まで平田諸門人が忘れることのできない先輩岩崎長世の大坂にあることがわかったのも、その一つであった。しかしそれにもまして半蔵の注意をひいたのは、なんと言っても討幕の志を抱《いだ》く志士らと相往来して共に画策するところがあったということだった。
 そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流の神道と儒学を捨て、純粋な古学に突進した熱心家であるばかりでなく、篤胤の武学本論を読んで武技の必要をも感じ、一刀流の剣法を習得したという肌合《はだあい》の人である。古学というものもまだ伊那の谷にはなかったころに行商しながら道を伝えたという松沢義章《まつざわよしあ
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